神保町よしもと漫才劇場の前
Image by: FASHIONSNAP
地方出身の著名人たちが、上京当時を振り返る連載企画「あの人の東京1年目」。5人目は、“ギャル芸人”として知られるお笑い芸人、エルフの荒川。持ち前の明るさとギャルマインドを武器に、お笑い街道を縦横無尽に駆け抜け、昨年には「女芸人No. 1決定戦 THE W」の準優勝に輝いたことも記憶に新しい。華々しい活躍を遂げる荒川だが、2022年、25歳での上京当時は「2年であかんかったら芸人を辞めようと思っていた」と話す。 上京して夢を追いかけた若き日の表現者たちは、新しい環境での挫折や苦悩をどの様に乗り越えたのか?夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。
ADVERTISING
中川家に憧れた空手少女
出身は、大阪の和泉市です。下町で、だんじりが盛んな街でした。子どもの頃は活発で、小学校から中学3年生までは、空手に打ち込んでいました。友達に誘われて始めたのに、気づいたら周りのみんなは辞めていて、私だけになっていましたね。一度始めたものはやめないという性格だからやと思うんですけど、学校が終わったら空手に行くのが当たり前で、生活の一部でした。
学校はクラスが少なかったのもあって、同級生みんなが友達でした。高校までずっと、周りの女友達はみんな可愛いギャルで。田舎って、上にお兄ちゃんお姉ちゃんがいるとそれだけで周りから一目置かれて可愛がってもらえるんですよ。「〇〇の妹」みたいな感じで。でも、私は長女やったから何もなくて、かわい子ぶるタイプでもないから、盛り上げ役みたいな立ち位置に徹していましたね。「ギャグします!」とか言ってノリで色々やってた。面白系じゃなきゃ目立たれへんかったんです。
ギャルに目覚めたきっかけは、小森純さんです。小〜中学生くらいの頃、小森さんがバラエティで活躍されているのを見て、純粋に「可愛い!」と思ってずっと憧れていました。小さい頃から、ギャルとか派手な見た目の人が大好きやったんですよ。今みたいに、ギャル全開の服装をするようになったのは芸人になってからですけど、中高生の頃から友達もみんなギャルやったんで、流行とか関係なく、今のスタイルがずっと好きですね。
最初に好きになった芸人は中川家さんで、今でも憧れの存在です。中川家さんって、大阪ではほんまに24時間出てるんちゃうかってくらい、ずっとテレビに出てるんですよ。テレビをつけたら当たり前のように出ていて、純粋に「むっちゃ面白い!」って夢中になって見てた。家族と喧嘩しても、新喜劇を見たらみんなが笑顔になる。そういうお笑いのパワーを感じながら育ちました。
吉本に入れるだけで良かった
子どもの頃から、テレビは大好きやったし、ずっとお笑いに対する憧れはあったけど、芸人なんてなれるもんやと思っていなかったんです。でも、高校生の時にNSCの存在を知って、自分にもお笑いの世界に行くチャンスがあるなら挑戦したいと思って、卒業後はNSCに行くことを決めました。
学生時代の荒川(右から2番目)
でも、進路相談で担任の先生に言ったらめちゃめちゃ反対されたんです。お母さんとの三者面談で、先生が「こんなこと言ってますけど、娘さん大丈夫ですか?」ってお母さんに言ったんですよ。私は何を言われてもいいけど、お母さんに向かってそんなふうに言われて、悔しかったのをよく覚えています。
当時の自分は、吉本に行けるだけで良かったんですよ。「こういう夢を叶えたい」「売れたい」とかじゃなくて、“お笑い”ができる場所に行けるだけで幸せやったから、「芸人なんてやめた方がいい」とか言われても、「どうでもいいから早く行かせて」って感じやったんです。でもお母さんの意見は自分にとって大きかったから、進路相談の帰り道に「とりあえずやってみて、諦めるなら諦めるでいいやん」と言ってくれた時に、決心できました。あの時、反対されていたらどうなっていたかわからないですね。
「おもしろ荘」出演をきっかけに駆け抜けた大阪時代
NSCは「吉本におれるだけでまじアゲ」みたいな気持ちで入って、芸人になりたい人しかいないから楽しい場所だと思っていたら、みんな敵対心がすごくて怖かったのを覚えています。仲良く和気藹々というよりは、ギスギスしていました。今となったら、みんなそれぞれ「こういう風になりたい」という強い思いがあるからこそぶつかるし、同期のネタに対して笑わん、みたいなスタンスの子がいたのも、若いし当然のことやと理解できるんですけど、その時の私にとっては衝撃でしたね。
NSCを卒業してからは大阪の劇場で活動していたんですけど、コロナ禍に入ってからは出番が少なくなってしまって。その頃にTikTokに動画投稿を始めたら、徐々に反応をもらえるようになって、2021年の元旦には「おもしろ荘」に出させてもらいました。おもしろ荘の反響はすごくて、テレビの仕事が一気に増えました。子どもの頃にずっと見ていた番組とか、出たいと思っていた大阪の番組は全部出させてもらったと思います。
いざ、テレビに出てみて感じたのは、先輩方との実力の差。劇場では芸歴で分けられることが多いけど、テレビは、芸歴20年目の先輩も7年目の後輩も同じ扱いじゃないですか。そんな中で、全然実力がないのに仕事がもらえている自分に対するモヤモヤが募っていって。子どもの頃からお笑いが大好きだったからこそ、すごい先輩たちの中で「私みたいな中途半端な人間がずっとおっていい世界じゃない」って、ずっと苦しかったです。
「全員殺してやる」と虚勢を張っていた上京1年目
上京を決めたのは、ほとんどノリと勢いです。関西芸人って、関西の賞レースで優勝して、M-1の決勝に行って、関西でレギュラー番組を沢山持って、卒業して上京する、という流れがセオリーになっているんですよ。でも、冷静になって考えた時に「自分たちはそんなに長いスパンで戦うタイプの芸人じゃないかも」と思ったんですよね。どちらかというとキャラで売っている側の芸人やし、どうせいつか仕事がなくなるんやったら、大阪に居続けても東京に行っても同じやし、一回、関西の賞レースを全部諦めてでも、挑戦してみたいと思ったのがきっかけです。
上京したのは2022年、25歳の時なので、今年でちょうど丸2年が経ちました。実は、上京する時に「2年であかんかったら芸人を辞めよう」と決めていたんですよ。大阪の先輩方はみんなすごく応援してくださっていたので、「恥ずかしい姿は見せられない」と自分を追い込んで、「大好きな大阪を捨ててまで行くなら期限を設けよう」と。とにかく結果を出すことに必死でしたね。「最初の2年でTHE W決勝に行けなかったら」「芸人一本で食われへんかったら」と決めて、だからこそ「最初の2年は友達もプライベートもいらん!死ぬ気でやる!」と自分を追い込んでいました。
「上京前、最後に先輩方が配信でサプライズをしてくださった時の写真です」(荒川)
私が上京した年は、上京組がエルフと見取り図さんの2組だけでした。しかも、大阪から神保町の劇場(※東京NSC19期以降の若手芸人が所属する神保町よしもと漫才劇場)に移籍するのは私たちが初めてだったんです。実際に来るまで、どんな雰囲気なのか全然わからんかったし、仲良い芸人もおらんかったから、言葉を選ばずに言うと「全員殺してやる」くらいに思っていたんですよ。「誰とも喋らんし、仲良くならん」みたいな(笑)。
私は18歳でNSCに入ってから、大阪ではずっと自分が一番後輩という立場だったんですけど、神保町は後輩の方が多くて。最初は後輩との接し方がわからなくて悩みました。タメ口で「おはよう!」って挨拶するのすら恥ずかしかった。自分が一番下という環境に慣れすぎていたんですよね。だから最初は後輩にも敬語で挨拶して、距離を置いてしまっていました。
でも、神保町に来て1ヶ月くらいが経った時、宣材写真を撮影していたら、それを見ていた後輩の子が「エルフさん、神保町へようこそ!」と大きな声で言ってくれたんです。「全員敵や!」と気を張っていたから、まさか優しい声をかけられると思っていなくて、すごくびっくりしたし嬉しかったのを覚えています。それをきっかけに、神保町のみんなの優しさに触れて、今ではもう、みんな大好き(笑)。神保町は、若く活躍されている人がすごく多くて、みんな面白いから「負けたくない」と思えるし、周りの芸人の存在が刺激になっています。懐いてきてくれる後輩も増えて、いつも支えてもらっています。
今は神保町のみんなが好きすぎて、ネタ合わせをする時は楽屋にいないようにしてるんですよ。みんなと顔を合わせると楽しくなっちゃって、やらなあかんこと全部忘れて喋ってまうから(笑)。上京したての時はあんなにツンツンしていたのに、今はもう「せっかくやしいっぱい友達つくろ!」って思っています。この時間が宝じゃないですか。「今しかないねんから、楽しも」というマインドに切り替わりましたね。2年が過ぎたけど、もっと東京におりたいし、今が一番楽しいです。
上京してから、芸人友達もギャル友達もたくさんできたんですけど、もう一つ個人的に大きな出会いだと思っているのがプロレスです。上京1年目の時に試合に呼んでいただく機会があって、初めて見に行ってから虜で、今では趣味の一つになりました。プロレスは、とにかく面白いんです。初めて見た時、細かいルールは全然わからなかったんですけど、心臓を撃ち抜かれて。スポーツを見てあんなに興奮したのは初めてだったんです。プロレスラーの方は、何回倒れても立ち上がるんですよ。その姿を見て、「私も弱音ばっかり吐いてられへんな」と勇気をもらったし、プロレスを見ていると、面白すぎて悩みとか全部吹き飛ぶんですよね。だから、今はプロレスを見に行ける休みを常に探しています(笑)。
ネタもSNSも両方頑張る
上京してから、本当にあっという間の2年でした。毎日、寝る前に「自分はどんな芸人になりたいのか」を考えるんですよ。「芸人の仕事を頑張ったら芸人以外の仕事もできるようになりたいな」とか「芸人の枠を超えたいな」ということを目標に、今までがむしゃらにやってきました。
そうしている中で、テレビに出させてもらうならネタで結果を出したいし、SNSをきっかけにファンになってくれた子もいるから、動画ももっと頑張りたい、と「テレビも動画も両方頑張らなきゃ」と思い過ぎて、しんどくなってしまった時期があったんです。そんな中、たまたま地元の仲良い友達と飲んだ時に「葉月(本名:荒川葉月)が出ていたら、それがテレビでもSNSでも、視聴者がもらえる元気のパワーは変わらないから、そのままでいいと思うよ」と言ってくれたんです。その言葉をもらって、全部頑張ってきて良かったと心から思えたし、これからも色々な形で、いろんな人に元気を届けていきたいなと思いました。
上京当時の思い出の品。「左上の写真立ては、先輩のkento fukayaさんから頂いたもの。大阪の先輩方との写真を入れています。右上の手紙は、プロデュースしているコスメブランド『ギャルズ』のスタッフさんからのもので、右下は仲良い後輩のみんながTHE Wの後にクリスマスプレゼントでくれたメッセージカード。左下は、大阪の番組『スロイジ(1時50分からはスローでイージーなルーティーンで)』が終わる時に、スタッフの皆さんに作っていただいたアルバムです。芸人さんだけじゃなくて、スタッフさんも大切にしていたら、こういうことをしてもらえるんだなと感動しました」(荒川)
私はまだ上京して2年で、落ち込むことも沢山あります。もし今、上京したてでしんどいなって思っている人も、流れに身を任せながら、日々一生懸命生きていたら、きっと報われる時が来ると思います。時には息抜きしながら、一緒に頑張りましょう!
◾️あの人の東京1年目
第1話:歌手・タレント 研ナオコと原宿
第2話:お笑い芸人 ランジャタイと大井町(旧NSC)
第3話:アンジュルム 佐々木莉佳子と赤羽橋
第4話:オカルトコレクター 田中俊行と清澄白河
第5話:お笑い芸人 エルフ荒川と神保町
第6話:俳優 佐藤二朗と東京
(編集:張替美希)
ADVERTISING
PAST ARTICLES
【あの人の東京1年目】の過去記事
READ ALSO
あわせて読みたい
RANKING TOP 10
アクセスランキング
銀行やメディアとのもたれ合いが元凶? 鹿児島「山形屋」再生計画が苦境