昭和11年7月21日生まれ。御年86歳を迎える画家、田名網敬一。1960年代からグラフィックデザイナーとして活躍し、アートからファッションまで様々なジャンルを横断したコラボレーションを手掛けるほか、ニューヨーク近代美術館で作品が常設展示されるなど、戦後日本のアートシーンを語る上では欠かせない「生ける伝説」と言っても過言ではないだろう。極彩色で彩られた作品はその色彩の明るさとは裏腹に、幼少期に経験した暗い戦争体験が強く反映されていることでも知られており、田名網の脳裏に焼き付いた、生きるか死ぬかが常に目の前にあった光景の壮絶さを物語る。
そんな半世紀以上にわたりアートシーンを牽引する巨匠の第一印象は、年齢にそぐわない若々しさと圧倒的なエネルギー量であった。80歳を越えてもなお、その勢いは留まることを知らず、ピカソの「母子像」を模写して生まれた新作「ピカソシリーズ」は既に400点以上を完成させたそうだ。想像よりも小さいアトリエには至るところに書籍や画集が敷き詰められており「狭くてしょうがないよ」と冗談混じりに話す姿は少年のようでもあり、一転して難解を極める話になれば「要するに」「つまりね」と丁寧に伝えてくれる姿は、絶対的な経験に裏付けされた自信と余裕を感じさせる。未だ、第一線で活躍する田名網敬一は、今、何を思うのか。
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作品のテーマと頻出するモチーフの意味
ー作品の重要なテーマとして「死生観」があると思います。コロナ禍は人々に「死」を意識させる出来事でしたが、何か制作に影響はありましたか?
たとえコロナ禍ではなかったとしても、歳を取って目の前に死が迫っているのが今の僕。それでも、子どもの時から「生き死に」というものを直視してきたから、死に対する恐怖みたいなことを今になって突然考えることはないかな。
ーそれは幼少期の戦争体験がやはり大きいのでしょうか?
そうだね。絶えず「死」というものに対峙してきたし、それの連続だった。要するに「死」というものに対して普通の人より敏感なんだと思うよ。防空壕から出て家に帰る道中で毎日死体を見ていたし、防空壕の中で人が死んでいくのも目の当たりにしていたからね。
ー死をテーマにしながらも暗い色合いではなく、極彩色で構成された作品は、どちらかといえばユートピアのような印象を覚えます。
生き死にをそこまでロジカルには考えていないんだけど、僕の人生に「死」という概念が付着してしまっているのたしか。くっついてしまっているから、今更切り離すこともできないと言った方が伝わるかな。「死」という絶対に脱ぐことができない洋服を着ているような感覚だから、それを描くしかない。
もし幼年期に戦争体験をしていなくて、平和に過ごしていたら「死」に対する研ぎ澄まされた感覚はなかったと思う。でも僕は「普通の子どもではいられなかった」という恐ろしい現実を通過してきた。
ー作品の原体験にあるのは記憶や思い出なんでしょうか?
「様々な記憶」がどの作品にも共通して言えるテーマだね。記憶にまつわる面白い話があって。僕は中学校や高校生の時の記憶がほとんど吹っ飛んでいて、何も覚えていないんだよ。幼年期に体験した戦争の記憶があまりにも強烈だったからなのか、記憶力がそこに過集中しているんだろうね。だから「どんな高校生活を送っていましたか?」と聞かれても全然思い出せないし、高校の同窓会で「田名網は学生の頃あんなことをしていたよね」とか言われても何も覚えていないの(笑)。
ー作品には度々「目」のモチーフが登場します。
それはやっぱり、絵を描くというのは見る仕事だからね。僕は、人物を描く時も目から描くの。
ー目へのこだわりが強い?
うん。だから、目のパターンをあらかじめたくさん作っておいて、ストックしているの。最近は、人物を描いた後に、用意してあったたくさんの目の中からしっくりくるものをはめ込む方法を取っている。つまり、絵に目を合成するということ。絵に決定的にハマる目というのは必ず存在する。それくらい、目というもの自体に強い力があるから、はめ込むことで絵が活性化されるんだよね。
ー田名網さんは、何をもって絵の完成としていますか?
キャンバスが拒否した時。筆を持ったとしても、キャンバスのどこにも筆をおけなくなったら完成。
ー田名網さんは自分自身の作品の魅力はどこにあると自己分析されていますか?
それは自分ではわからないよね。
ー個人的には、平面作品でありながら今にも動き出しそうな動的な描き込みが魅力の一つであると感じていますが。
動きについてはとても意識をしていて。きっかけは、幼少期に通っていた映画館で上映されていたアニメーション作品。ウォルト・ディズニーのミッキーマウス、ベティ・ブープやポパイなどのキャラクターを輩出したフライシャー兄弟の2人が特に好きだった。
ー劇映画よりも短編アニメーションが好きだったんですね。
絵が動くということに対して異常に興味を持ったわけ。だから今でも、絵を描く時は「動画のある一瞬がストップしたとしたら」を仮定して描いている。絶えず動いている絵を止めて、その絵が次どう動くかを連想できる絵を描きたかった。そのことが見ている人に通じればおもしろいけどね。僕はそう思って描いているけど、鑑賞者がどう思うかはわからないから。
僕は編集的な作業がすごく好きなの。僕の言う「編集」というのは、転がっている素材を寄せ集めて、並び替え、再構成すること。紙の上にレイアウト用紙を作る感覚といえば伝わるのかな。文字組みや台割を書き込む指定紙のように、絵を描きあげる。
ーなるほど。その考えが根付いているのは田名網さんの経歴が、武蔵野美術大学でデザインを専攻していたというのが大きいのでしょうか?
それはあるかもしれない。でも、武蔵美ではあんまり勉強していなかったからな(笑)。編集的な視点は、アンディ・ウォーホルの作品を見て学んだかもしれない。彼も、元々グラフィックデザインから出発しているから、デザインがベースになっていて、編集的な工程をシルクスクリーンという方法でアウトプットしている。つまり、グラフィックデザイナーと全く同じ工程を踏みながら、最終的に発表する時にだけ、ファインアートとして昇華している。
田名網が説く「オリジナリティ」の所在
ー近年、ピカソの模写を始めたと聞きました。
コロナ禍で、展覧会などの予定が突然無くなってしまって。しばらくはぼんやりして過ごしていたんだけど、ぼんやりも長くは続かなかった。というのも、僕は生活が規則正しいの。眠る時間も、起きる時間も毎日同じで、それが少しでも狂うとバランスが崩れて日常生活がスムーズにいかなくなる。だから、コロナ禍でバイオリズムが狂ってしまって、制作ができなくなって「どうしようかな」と考えている時に「いつもはやっていない仕事だけど、模写をしてみようかな?」と思った。
ーどうして「模写」と言う方法が閃いたんでしょうか?
実は高校生の時に、2ヶ月間くらい集中的に模写をしていた時があって。「人の絵を描き写すのは面白いな」と思った感覚を、何十年経っても覚えていたの。
ー当時は何を模写していたんですか?
ゴッホとか、ルノワールとかの所謂有名画家だね。学校の近くに画材店があって、そこの店主が「あなた、絵がうまいから、名画を模写してこのキャンバスに描いてくれない?」とお願いされたことがきっかけ。「お礼は、お店で売っているキャンバスとか絵の具とか、欲しいものは全部タダであげる」って言うんですよ。高校生の僕にとって画材は高級品だったのに、大量にくれるから。「これはいいわ」と(笑)。
ー最初に模写したのは?
多分、ゴッホの「糸杉」。それでね、その絵を持っていったら店主が気に入って、額縁に入れて飾ってくれたんだけど、すぐに売れちゃったの。そうしたらいつの日からか店主から絵の指定が来るようになって。キャンバスを10枚くらい渡されて、描き終わってはお店に持っていくと、気がついたら売れている(笑)。そうこうしていたら学校で噂になっちゃって。教員室に呼び出されて「犯罪行為になりかねないからすぐに辞めなさい」と。当時は模写という考え方があまりなくて、真似したものを販売していると伝わっちゃって。贋作だと思われたんだよね。それで、僕の模写生活は2ヶ月くらいで終わった。
ー時を経て、再び模写をしようと思った時、何故ピカソだったのでしょうか?
どうしてもピカソじゃなきゃいけなかった訳ではなったんだけど、アトリエのリビングに手塚治虫さんがアトム展を開催した時に提供した絵をずっと飾っていて。この絵が自分でもお気に入りだった。
ー結局、ピカソの模写から生まれたオリジナル作品「ピカソシリーズ」を400点以上描き上げたと聞きました。
最初は、10枚くらい模写したら辞めようかなと思っていたんだけど、延々と描いているうちに段々と面白くなってきちゃって。結局400点くらい描いた上に、まだ描いているよ。ピカソの模写のおかげで、コロナ禍の数年間は楽しく過ごしたね。
ーどうしてそんなに「模写」に魅了されたんでしょうか?
「写経」ってあるでしょ? それに近いんだと思うよ。精神的な落ち着きというか、雑念を忘れて没頭できるわけ。座って描くということが精神安定に繋がった。
ー模写といえども、自分らしさやオリジナリティを出したくなるのが表現者なのではないでしょうか?
僕はピカソにとって他者だから。素直に写そうとしても当然そのままの絵にはならない。描き方、筆の強さ、体力によっても絵って変わってくるからね。同じように描こうと思っても、同じようには書けないの。だからこそ、「描き写す=そのまま描く」ではだめ。創意工夫を凝らして、別のアイデアを組み込んでどんどん発展していくことに意味があるんじゃないかな。
ピカソを模写するにあたって、彼のことを研究したんだけど、ピカソは太い筆で大胆に描く。だからあえて僕は面相筆という細い筆を使って模写しているの。ピカソは黒い線を、スッと引くけど、面相筆だと何十回も引かないと同じ太さにはならない。そうすると当然、ピカソの絵とは全然違う性格の線になる。それで差別化ができる。
ー面相筆を用いる以外に、田名網さんのオリジナリティを出すために取り組んでいることはありますか?
色々あるよ。例えば、ピカソの他の作品に登場するモチーフと合成してみるとか。もっと面白いのでいえば、ピカソの絵を見ずにピカソの絵を描くことかな。つまり「もし僕がピカソになったら」という実験。ピカソにも手癖や作画上のルールはあるんだけど、400枚も既に模写して手癖すらもマスターしているから、案外描けてしまう。
ーちなみに、田名網さんは画材や筆のこだわりは強いタイプですか?
全然ないね。僕は、小学生が使っているようなクレヨンだろうが、文房具屋さんで売られている安い絵の具や色鉛筆だろうがなんでもいい。
「肉体と衣服というものはこんなにも綺麗」
ー田名網さんといえば、「ユニクロ(UNIQLO)」「アディダス(adidas)」「コム デ ギャルソン・ジュンヤ ワタナベ マン(COMME DES GARCONS JUNYA WATANABE MAN)」など様々なファッションブランドとのコラボレーションでも知られています。
ファッションブランドとは昔からコラボをしていて、膨大な量がスタジオにも眠っているよ(笑)。よく覚えているのは、2003年にコラボした「マリークヮント(MARY QUANT)」。出版社からの依頼で、来日するツイッギーの絵を描いたら、それをたまたまデザイナーのマリー・クヮントが見てくれてコラボが実現したの。
ークライアントワークでは、求められるものと描きたいものの乖離が起きるかと思いますが、どのように納得させているんですか?
嫌なものは断るから。でも最近は、僕も「良いな」と思えるようなところからしか仕事が来ない。
ー平面作品が着るものになると、それこそ作品には動作が生まれると思いますが、アウトプット方法に何か変化はありますか?
いや、変わらないよ。例えば、Tシャツなんかもたくさん作っているけど、いつも頭の片隅に思い浮かぶのは、映画「ゴッドファーザー」で知られている俳優のマーロン・ブランドのこと。彼は体格がすごく良いから、Tシャツを着るととてもかっこいい。痩せて、布がふにゃふにゃにならないから、緊張感あって、それこそ絵のようなんだよね。「肉体と衣服というものはこんなにも綺麗なのか」と思ったのをよく覚えているし、その感覚は今でも残っている。
「美術を教えることはできない」その真意
ー田名網さんは1991年から京都造形芸術大学で、教授として若手作家の育成にも力を入れています。現役作家が美術を教えることはとても難しいことなのではないでしょうか?
「美術は教えられないし、教えるべきじゃない」というのが僕の基本的な考え。その発想から美術教育に携わっているし、美大からオファーが来た時も「僕は美術を教えません。それでもいいですか?」という条件で一応引き受けたの。
ー「美術は教えるべきではない」というと?
教えることが不可能。「こういう線を描いて」と言っても、僕の考えと学生の考えが違うのは当たり前だし、筆の持ち方や力の入れ具合だって異なる。そんなものを手取り足取り教えても何の役にも立たないでしょう。
ーでは大学では何を教えているんでしょうか。
人間に誰にでもある想像力というのはどのように培い、自分の仕事に応用できるかという、想像力そのものの発想法を教えよう、と。僕のカリキュラムをまとめた「100米の観光―情報デザインの発想法(ちくま書房)」と言う本があるんだけど、これが我ながら面白い本なんだよ(笑)。
ー(笑)。どういった内容なんですか?
「100米の観光」というのは、僕の授業でも象徴的なものなんだけど、京都に小さい川が流れていて、橋から次の橋までの距離がちょうど100mの路地があるの。「その100m中で、想像力を膨らませて観光してください」というお題に、学生たちが各自で考え、発表するというもの。
ー想像力もそうですが、着眼点も重要になりそうですね。
そうだね。100mの中で、どういうものを見つけ出すかということでもある。印象に残っている学生の作品があって。それは、川に水がほとんどなく、歩けることに気がついた学生の作品。そこから、川の流れを道路と見立てた映像作品を作ったの。要するに「必ずしも人間は道路だけではなく、川も歩くんだよ」という想像力の拡大だね。
全てが未完成だった60年代と完成された現代
ー田名網さんが活躍し始めた1960年代は、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ※の面々の他、横尾忠則さん、先輩には三島由紀夫さんなど錚々たる方々が活動をしていた時期でもあります。当時の若手気鋭作家たちはどのような雰囲気だったのでしょうか?
端的に言ってしまえば、当時は「都市と肉体」の時代。都市というのは、高度経済成長真っ只中でビルが建設ラッシュだったこと。それと反比例するように、舞踏家の土方巽さんが、元来の舞踏を全否定したようなとんでもないものを作り上げたりと、肉体というものが重要になってきた時代だった。ではここでの「肉体」とは何か。ここで重要なのは、様々なものが未成熟で未完成の時代であったということ。戦後の日本を代表する芸術運動として、篠原有司男さんや赤瀬川源平さんがネオ・ダダイズム・オルガナイザーズとして活動していたし、赤塚不二夫や、寺山修司なども台頭してきた時代でもあった。
それともう一つ現代と大きく違うことがあって、それは今ほどジャンルごと分断されていなかったこと。僕たちの時代は、画家も漫画家も建築家も全部一緒くたでぐちゃぐちゃになりながら、活動をしていた。様々なものが横断的で、非常に面白い時代だった。今は、当時のような異種交流みたいなことはなくなっちゃった。
ーある種完成されていて、かつ昔ほど異種交流がない今の時代を田名網さんはどう見ていますか?
日本の美術業界だけでいえば、それぞれが自分の利益を優先してしまって、足の引っ張り合いをしているようにしか見えない。例えばアメリカの美術業界は、カウズ(KAWS)みたいなスターが登場してくると、市場自体がカウズを支えるし、彼みたいなスーパースターを輩出することでさらに市場全体が活性化することを、ギャラリストやコレクターたちも知っている。カウズの以前でいえば、ジャクソン・ポロックだっただろうし、イギリスの市場だったらダミアン・ハーストだった。一方で日本美術市場は、世界的なスターがもう長いこと出てきていない。それは、みんなで市場を底上げして、潤いましょうという意識が軽薄だからなんだと思うよ。
ーNFTに代表されるような新しい市場モデルの登場など、「現在はアートバブルである」という見方もあります。
それはどうなんだろうね。まだ時代が証明するところまで到達していないから。大抵のことは、何年かして正しかったとか、間違っているとかが出てくるものだから。今、僕が意見を言うというよりかは、時代が証明すると思う。
ー最後に、次世代のアートシーンを牽引する若手作家に伝えたいことはありますか?
ひとつだけ言えることがあって。それは「絵は日本だけで勝負をするんじゃなくて、世界中で勝負をしないと意味がない」ということ。日本だけで勝負をしている作家は必ず終わる。少なくともそういう意識がないとダメ。今は本屋だろうが雑貨屋だろうが、アート作品が商売になるって言うんで、イラストレーションのような可愛い絵を並べたりしているけど、売れなくなったと分かった瞬間に片付ける。それじゃ画家にとってもあまりにも一過性過ぎる。絵は言語を伴っていないから、様々な国に行けるはずだよ。
(聞き手:古堅明日香)
■田名網敬一「世界を映す鏡」
会期:2022年11月12日(土)〜2022年12月25日(日)
会場:NANZUKA UNDERGROUND
住所:東京都渋谷区神宮前3丁目30−10
営業時間:火曜日〜木曜日 11:00〜16:00/金曜日〜土曜日 11:00〜17:00
休業日:月曜日、日曜日、祝日
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