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会期中も会期後も読める新たな批評の在り方を模索。会期後のレビューではなく、会期中の展覧会を彫刻家で文筆家の鈴木操がレビューする同連載。第4回は国立新美術館で開催中の「李禹煥(リ・ウーファン)展」。鈴木は同展をどう見たのか。
8月15日は日本では「終戦の日」、韓国では「光復節」という日本の植民地支配からの独立記念日である。その直前の8月10日から国立新美術館で始まった「国立新美術館開館15周年記念 李禹煥」展は、東京では初となる大規模な回顧展であると銘打たれたものであった。月報という名のもとに始まったこの連載は、暦に刻まれる様々な歴史的な出来事に応答する義務を少なからず負うことになるのだと、当初から私はそのように受け止め、執筆に向かってきた。そして特に8月というこの月に関して言えば、日本に暮らす多くの人が年間を通してもっとも深く歴史的な出来事と向き合う月であるだろう。その意味で率直に言えば、今回の国立新美術館での李禹煥の回顧展を、私はとても複雑な気持ちで観ることになった。
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ところで思いがけずハッとしたが、確かに李禹煥は国内で大規模と言える個展を、2005年の横浜美術館での「余白の芸術」展以来行っていない。しかし一方で、2010年に建築家の安藤忠雄とのコラボレーションによって生まれた「李禹煥美術館」が直島にオープンしたことや、2014年のベルサイユ宮殿で個展開催など、所謂グローバルな存在感を印象付けるニュースは、東京に暮らす私にとっても記憶に新しく思い出される。李はこの十年ほどのあいだ、アメリカ、イギリス、フランスといった、現代アートにおいて主要な国となっている場所で主に展示を行ってきた。このように長らく国際的な評価が上がり続けている李を、いざ日本ではどのように受容してきたか、あるいはするべきか、回顧展である以上は多少なりとも問う必要があるだろう。今現在でも、かつての〈もの派〉の代表的アーティストとして語られ、そのベールの内に潜む李の作品からは、その活動初期から現在にかけて維持されている極端にシンプルな見た目によってかは分からないが、問うに落ちない寡黙な神秘さが漂っている。特に今回の回顧展では、その神秘性を強調するためか、もしくは李にとってはありふれたやり方なのか、素朴に坦々と作品を見せる構成にしていたことが逆に私の目をひいた。それ故に私たち観客は、おそらく作品のみを見ていくのでは不十分で、むしろ作品の外部、あるいは周辺に存在する評論執筆や李自身について、また同時に美術制度の中での扱われ方なども含めて、まとめて推し量るようにして見る必要があるのではという考えが、終始私の頭の中に漂った。
李禹煥は1936年に日本の植民地期の朝鮮に生まれ、1956年20歳の時にソウル大学校美術大学を中退。叔父の見舞いのために渡日している。その後、叔父のすすめで日本に残り、翌年に拓殖大学で日本語を習得し、次の年からは日本大学で哲学を学ぶ。60年代前半は在日韓国人の学生たちと〈烽火〉という演劇サークルを結成し活動したり、韓国の軍事行政に反対する運動や、南北統一運動にも深く関わっている。そして65年頃から現代美術に身を投じるようになり、68年には関根伸夫との出会いをきっかけにして、〈もの派〉の中心人物として作品だけでなく理論的な軸を形成していくこととなる。〈もの派〉が現れるまでに隆盛した〈具体美術協会〉などとは違い、〈もの派〉はイデオロギーやグループ展によって堅く繋がったグループではなく、言説を軸としつつも揺らぎのある緩いグループであった。ただ一方で、その理論の要に李の評論活動があったことは間違いない。それは69年に書かれた論考「事物から存在へ」の美術出版社評論公募の入選や、71年に田畑書店から刊行された著作「出会いを求めて」からも明らかである。 しかしこのようなグループの緩さと、短期的な〈もの派〉としての集約(李はもの派の活動時期を1968年から1973年前後までと考えている)を踏まえると、〈もの派〉という枠組みの中だけで李の仕事を見ることの限界は、やはりあるだろう。
もはや直裁に言ってしまうが、そもそも〈もの派〉の活動を軸として見たとしても、李の制作活動を通時的・共時的に見ていこうとすると、日本の帝国主義とそれに伴った植民地支配の歴史、また戦後の米ソ冷戦下における日本と韓国あるいは北朝鮮との国際的関係や、戦後日本社会における「在日コリアン」の存在を、本来的に避けて通ることは出来ない。こういった事柄を日本の美術史の記述は比較的避けてきたと思われるし、これは李の問題であるというより、日本社会において李の活動や作品を、どのように受容してきたかという問題だろう。それは2005年の「余白の芸術」展のカタログに収録されている、チェ=デュポルジュ・オッキョンによって書かれた「年譜」に目を通すだけでも、より具体的なこととして映ってくる。例えばこの「年譜」に記載されている1971年のこと、アメリカNYにあるグッゲンハイム美術館で企画された「現代日本美術展」に出品予定だった李に対し、日本の外務省が国籍を理由にして出品不可通知を出して当時問題となっている。この事態に対し、美術評論家の針生一郎が「朝日ジャーナル」誌に書いた抗議文をきっかけにして議論が起こり、日本のほとんどの展覧会における国籍条項が撤廃されるといった状況へ発展している。こういった李の活動によって明らかにされた問題が派生的に進展し、最終的に新しく権利や承認を得たことは、当時、支配的な権力への痛烈な批判であったと言えるし、また権力が社会制度や文化言説という間接的なシステムを通して働き、かつ微妙に分かりにくい形で人々を服従化していることの告発であったとも言える。今現在、李の活動にまつわるこういった過去の出来事はどれほど知られているのだろうか。私は今回文献で知ったが、少なくともその前までは全く知らなかったし、今回の展覧会の中でも扱われていなかった。ただ私は、こういった社会的な出来事と李の作品を安直に繋げて、表面的に政治的なアーティストだと言いたいのではない。そうではなく、むしろ諸々の芸術活動が政治的であること、また革命的であることの判別が難しいという判断のもとで、芸術が生み出す諸効果の範囲を見極めるためにはやはり言語表現が必要であり、つまりステートメントやマニフェストといったものの価値は再度見直されるべきであると感じた。そしてこのような芸術が持ちうる可能性の好例を、回顧展のキュレーションで拾えていないのはいささか致命的に思えた。 一般的に非政治的と言われてきた〈もの派〉の理論的な中核をなした李は、「出会いを求めて」の冒頭において、帝国主義思想の遂行史としての植民地主義と、言語によって像化され捉えられる虚像たる産業社会からの脱却という意志を明確に描いている。もちろん〈もの派〉のメンバー全体が、このような脱却の理念において駆動していたとは到底思わないが、しかし今回の「李禹煥の回顧展」という名目においては、「出会いを求めて」を李個人の活動全体を表すステートメントとして、積極的に読むべきだと私は考える。アーティストの評論活動と作品制作の関係がどのような力場を生んでいるか、それを評価するための新しい指標が今もなお求められているし、李に関して言えば積極的に評論活動を行っているのであるから、その点を留意して展示を観るべきである。
そういう訳で、李の作品読解のヒントを、一旦「出会いを求めて」の中に求めてみる。李が脱却の理念を芸術行為の内へ特徴づけようとした時、「出会いを求めて」の中では「出会い」という関係の構造の構築と、それを「持続」させる時間感覚を支える「仕草」という媒介の重要性が繰り返し描写されている。そして「あるがままを〈アルガママ〉にする」というズレの仕組みが「出会い」を可能にするのだと提案されている。この李の独特な語感が具体的に作品とどう繋がるかを見ていく時、2世紀頃のインドに生きた仏教思想家の龍樹(ナーガールジュナ)の思想が、補助線として役立つのではないだろうか。 と言うのも、「出会い」や「あるがままを〈アルガママ〉にする」からは、龍樹(ナーガールジュナ)の「縁起」と「空」の思想を見てとれるからだ。実在しないものを実在していると思い込むことで生じる執着心や所有欲から解放されることを目的とする「空」の理論では、言語を使って世界を捉えることが否定される。例えば、言葉によって「石は石であるか?」と、石に対してさらに石的であるかを疑問視しても、それは単に不合理である。しかし李は「石が石である」という〈アルガママ〉の状態と私たちの「出会い=縁起」を、言葉ではなく身体的な知覚を通して観客に開いてみせる。今回それがもっとも象徴的かつ分かりやすく提示されていたのは、賽の河原の積み石を想起させるオブジェクトが配置された石畳のインスタレーション作品「関係項―棲処(B)」であっただろう。
一般的に屋外で踏む石畳は、その下の土の柔らかさによって、足裏に伝わる反発力が軽減されている。しかし美術館という建築物の堅い床の上に敷かれた石畳は、土による反発力の軽減作用がないため、足裏へ直に石の堅さが伝わる。習慣的な思い込みによって準備されている私の身体は、この独特な反発力の知覚的ズレによって、平衡感覚が乱れしばらく戸惑い立ちすくんでしまった。これはいかに自分の身体が世界に対してだらしなく、そして受動的であるかを思い知らされる経験でもあった。この〈アルガママ〉の経験を通して気付かされるのは、普段路上や公園、あるいは庭園で踏む石畳は、純粋な〈石畳〉なのではなく、石畳と土から生み出される複合的な感覚の束であったということだ。また歩くたびに石が揺らぎ音が鳴ることで、私という存在が強調され、対照的に石の存在の静けさが、無として強調される。このような鑑賞経験については、従来支配的であったアメリカの批評的文脈において、演劇的だとシンプルに言われてきた状況がある。しかしここでは「あるがままをアルガママにする」という仕組みのもと、「石が石である」という「出会い」を通して、普通は感じることのない物質の離散的な時間感覚を経験したと、私は積極的に言いたい。
他方で作品を表面的に見てしまうと、工業的規格を感じさせる木の角材やガラス板そして鉄板という素材へ注目が行き、その認識を通してアメリカのミニマリズムやアース・ワークとの類似がたびたび指摘されてきたと思うが、しかし李の古今東西の哲学や思想から練られた独自の制作理論はむしろ、冷戦下のアメリカン・アートが暗に前提としてきた「帝国主義思想の遂行史としての産業社会」の外部を目指してきたのである。それを鑑みれば李の彫刻作品は、一見欧米のアートに由来するような特殊な場を構築しているようにも見えるのだが、そこに力点は置かれておらず、産業社会において人間の身体に構築されてしまっている惰性的な習慣を解除し、本来バラバラに存在する万物の在り様を鑑賞者に知覚させることを目的としている。その次元において、李は欧米とは違う芸術の方向性を継続して描いてきたのだ。
以上、今回私が触れたのは大まかに彫刻作品のみであり、また〈もの派〉というベールの向こう側の李を見定めることは到底出来ていないと思うが、いずれにしても〈もの派〉に括られない李の多様な面を、解釈する努力を私たちは日々進めていくべきだろう。展示後半の絵画群についても同様に、従来の視点とは別の次元において読み解く必要がある。実際そういった視点の導入が近年行われている。2017年の東京オペラシティアートギャラリーで行われた「単色のリズム 韓国の抽象」では、1970年代の韓国で一つの特徴的なタームとなった「単色画」という様式の中で、李の絵画が紹介されている。こういった日本の戦後現代アートの文脈とは違う軸で李の絵画を鑑賞することは重要であるし、韓国と日本の関係を省察するきっかけにもなるだろう。戦後冷戦下の日本の現代アートは、未だ語り尽くせない未知な部分が多く、その上で言えば、李が持つ多面性や幅広い活動は、そういった未知性と照応しているように思えてならない。ともあれ、こういった期待に、私たちは私たち自身で応えなければならないし、李の作品を前にした時の独特の語り尽くせなさと、私たちは向き合い続け、未来へと開かれていくべきなのだ。
彫刻家/文筆家
1986年生まれ。文化服装学院を卒業後、ベルギーへ渡る。帰国後、コンテンポラリーダンスや現代演劇の衣裳デザインアトリエに勤務。その傍ら彫刻制作を開始。彫刻が持つ複雑な歴史と批評性を現代的な観点から問い直し、物質と時間の関りを探る作品を手がける。2019年から、彫刻とテキストの関係性を扱った「彫刻書記展」や、ファッションとアートを並置させた「the attitude of post-indaustrial garments」など、展覧会のキュレーションも手掛けている。
(企画・編集:古堅明日香)
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