高田賢三と鈴木三月(筆者)、2019年7月 東京にて
Image by: Yayoi Suzuki
2020年——最後の会話
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「人の為に何かをしたい」。そして常に自分の夢に向かって歩んできた賢三さんは、81歳になる2020年に、インテリア・ライフスタイルのブランド「K三」を立ち上げた。1月の家具見本市「メゾン・エ・オブジェ」で初披露。東洋と西洋の美を融合した華やかなデザインが好評だった。
その仕事もあって、私はスタッフとともに1月と2〜3月にパリへ。最終日は賢三さんの自宅で料理を作った。それが、私が直接賢三さんのためにできた、最後のこと。
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作りながら、昔のことを思い出していた。バスティーユの家でコロッケを作った時。「揚げたてって美味しいよね〜」と、油から上げたばかりのコロッケを私の後ろでじっと見つめていた。「どうぞ食べていいですよ!」と言うと、待ってましたと言わんばかりに嬉しそうにほおばる賢三さん。まるで子どものように純粋だった。
私は、賢三さんにとってどんな存在だったのだろうか。とある取材で「賢三さんにとって、鈴木さんはどんな存在ですか?」と聞かれた時、「母でもあり、姉でもあり、友だち・・・いや飲み友だちかな」と笑顔で答えていた光景を思い出す。(え〜!年上!?)と心の中で思いながら、賢三さんに少し近づけた気がして嬉しかったものだ。
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今年、パリがロックダウンになる寸前に、私たちスタッフは日本に帰国した。その後も取材や仕事の話で頻繁に連絡をとっていたが、そのうちパリでは日本食などが全く買えなくなってしまったようだ。お米やカレーといった日本の食材、うがい薬やユンケルなど、色々なものをパリに送った。実家の母から息子の家に送るように。
9月中旬には、第二便を送ってほしいと連絡があった。いつもデパ地下で沢山の食材を買っている賢三さんを思い出しながら、大きな段ボール箱にたくさん詰めて。でも、送った荷物がパリに届く頃には新型コロナウイルスに罹ってしまったので、箱が開けられることはなかった。大好きなものを、お腹いっぱい食べて欲しかったのに・・・。
本当は、なんとしてでも現地に飛んでいきたい。なのに祈るしかできない毎日。でも入院から3日後に、「昨晩は久々に朝までゆっくり寝れて気持ちよかった。お医者さまに聞いたら、快復してきていると。ほっとしました」というメッセージが届いて、安心させてくれた。それが、賢三さんと最後に交わした言葉。
10月3日、私が初めてデザインを手掛けたブランド「ミニマライズ+プラス」を発表するため、ショップチャンネルに出演した。少し前に賢三さんに相談した時には「何にでもチャレンジですよ。頑張って!」と背中を押してくれた。「僕の名前もバンバン使っていいですから。でも、儲かったらお金くださいよ〜っ」と、いつものユーモアも添えて。電話の向こうで笑うその声を思い出すと、自然と緊張の糸がほぐれた。
どこかで見届けてくれていたのだろうか。賢三さんは危篤状態を経て、私のオンエアの翌日10月4日に他界——。最後の最後まで、人を想う愛を感じさせてくれた。
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パリのアンヌ・イダルゴ市長は「パリは息子の死を悼む」と追悼。パリに愛され、本当に多くの人に愛されていた。今はきっと、先に逝ってしまったグザヴィエさんや敦子さん、友人の皆さんと、楽しくデザインの話に花を咲かせていることだろう。
最後にひとつだけ、蝶々が嫌いな事を隠していて、伝えられなくてごめんなさい。「なんだ〜、嫌いだったの?」と、笑ってください。
賢三さんは、私にとって永遠のミューズ。ずっと心の中で生き続けている。いつまでも賢三さんへのオマージュを忘れずに、これからも賢三さんについていくと心に決めている。
会えないのは寂しいけれど、魂は側にある。
そして、これからもずっと一緒にいたい。
時空を超えて・・・
賢三さん、大好きです。
Kenzo restera dans mon coeur pour toujours.
(文・鈴木三月 / 編集・小湊千恵美)
エピローグ——七七日に寄せて
今日、2020年11月21日は、賢三さんがご逝去してから四十九日にあたる七七日(なななのか)。仏教の世界では、仏さまのもとへ旅立つ日、極楽浄土へ行かれる日です。
この10年間くらいは、私だけが思っているかもしれませんが、賢三さんと"阿吽の呼吸"になれたと肌で感じていました。どんな時でも、声のトーンや雰囲気でこうしたいんだなぁとわかり、目で語られることもありました。
賢三さんに恩返しもできないままでした。これからしっかり恩返ししたいです。
今日、仏さまのもとへ旅立たれて行かれる賢三さんですが、どうぞご家族の皆さまやご友人、お仕事仲間の皆さまの事をお守りください。そして私の傍にもいてください。
お電話がない事やお話が出来ない事が、こんなにも辛いのかと感じておりますが、賢三さんは美しいまま、皆さんの心の中で生きています。
どうぞそちらの世界でも、アーティストとして、デザイナーとして、活躍されてくださいませ。そしてたまには、夢の中でお会いしたいと思います。
2020年11月21日 鈴木三月
【全3回】高田賢三と私の37年間 KENZO創設者の横顔
第1回:トップに上り詰めたデザイナーの謙虚な素顔
第2回:ゼロから育てたKENZOブランドを離れて
第3回:奇跡のような一年と最後の会話
高田賢三(Kenzo Takada)デザイナー
兵庫県生まれ。1960年第8回装苑賞受賞。1961年文化服装学院デザイン科卒業、 1965年に渡仏。1970年パリ、ギャラリー・ヴィヴィエンヌにブティック「ジャングル・ジャップ」オープン。初コレクションを発表。パリの伝統的なクチュールに対し、日本人としての感性を駆使した新しい発想のコレクションが評判を呼び、世界的な名声を得る。その後ブランドを「KENZO」とし、高い評価を受ける。
1984年仏政府より国家功労賞「シュヴァリエ・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章(シュヴァリエ位)受章。1998年仏政府より国家功労賞「コマンドゥール・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章最高位の(コマンドゥール位)受賞。1999年2月ニュ-ヨ-クで国連平和賞(タイム・ピース・アワード)の98年ファッション賞を受賞。10月パリコレクレションを最後にKENZOブランドを退く。同年、紫綬褒章を受章。
2004年開催アテネオリンピック日本選手団公式服装をデザイン。パリ市よりパリ市大金賞を受賞。その後、デザイナー活動および絵画を手掛け、絵画展をフランス、モロッコ、アルゼンチン、ウクライナ、ロシア、ドイツで開催。また、クリエイションにおける異業種とのコラボレート事業、世界の伝統文化を継承する為の活動などを精力的に展開。
2016年仏政府よりレジオンドヌール勲章「名誉軍団国家勲章」(シュヴァルエ位)を受勲。 同年、日本においてセブン&アイ・ホールディングスの社傘下のそごう・西武およびイトーヨーカドーのPBブランド「セット・プルミエ」を展開。
2017年12月「夢の回想録」出版。2018年、Edition du Cheneより「KENZO TAKADA」出版。2019年10月東京二期会主催/演出家 宮本亞門氏によるオペラ「蝶々夫人」の衣裳を手掛ける。日本を含む4ヶ国初の共同制作公演で、2020年4月ザクセン州立歌劇場(ドリスデン)、その後デンマーク王立歌劇場、そしてサンフランシスコ・オペラでの上演が決定していたが延期。
2020年1月ホーム&ライフスタイルの新ブランド「K三(ケースリー)」をパリから世界に向け発表。パリ・サンジェルマンにショールームをオープン。
2020年10月4日他界。
※高田賢三の「高」は、正式には「はしご高」
鈴木三月(Yayoi Suzuki)
東京都出身。パリソルボンヌ大学、Institute Catholique大学留学・卒業。(株)SBA (株)French Fashion Center/Fédération Française du Prêt-à-Porter féminin Japon入社。パリプレタポルテ・オートクチュール協会日本事務所入社。
SUNデザイン研究所・スタイリスト科入学。卒業後(株)エルカ入社。KENZOブランドのPR担当として働く。
1991年日本におけるattachée de presseの先駆けとして(株)パザパを設立。ヨーロッパのファッションブランドのPRを主に手掛けるとともにKENZO社の日本におけるPR担当および、高田賢三のパーソナルマネージメントを担当。
2000年から高田賢三のビジネスパートナーとしても活動開始。2006年コンサルティング会社(株)ビズを設立。2011年(株)パザパを、(株)セ・シュエットに社名変更(パザパは現在PR事業部として存続)。
現在、衣食住のPRおよびブランディングに関するアドバイザーやモード学校での講師を務める。2013年に調理師免許取得後、フードアドバイザー等の仕事をスタート。
人生をより美しく輝くものにするには、気持ちが前向きであることが大切だと考え、ひとりひとりが夢のある毎日を過ごして欲しいと考えている。
2020年10月、SHOP CHANNELにて自身のウィメンズのブランド「Minimalize+Plus」をスタート。
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