無音の客入れ、シンプルな照明、そして暗転。直後、闇を劈く大きな“ドン”というドラムの音がひとつ。突然の大きな音に体をびくりと緊張させ、驚く人も多かった。しかし、ファーストルックが登場して観客はもっと驚いた。なぜなら、乳房を強調させるように、先端を尖らせたコーンブラが向こうから歩いてきたからだ。多くの人は思ったはず。「これは、カナコサカイ(KANAKO SAKAI)のショー会場であっているよな」と。
カナコサカイというブランドはデビューから数シーズンながらも、クリーンで洗練されたブランドイメージを守ってきた。色で例えるなら、パステルカラー。もので例えるならマイナスイオンに満ちた森林のイメージだ。それを、強烈に裏切ってきた。前シーズンのショーが始まる前も想像したものだ。「ブランド初となる今回のショーは気を衒った演出はなく、実直でクリーンなものになるだろう」と。だからこそ、会場に足を踏み入れた時に、ディスコライトと爆音のダンスミュージックに面を食らってしまった。そして今回もまた別のベクトルで、カナコサカイの盛大でとびっきりのサプライズにあった。
ファッションブランドビジネスは、「こういう服が着たい」ではなく「こういう風になりたい、だから、この服を選ぶ」という考えが深く根付いている。ブランド側が用意する理想像への共感が消費行動に繋がる。カナコサカイというブランドもその限りであり、筆者はそれを「艶やかさとは異なる日本の湿度」だと思っていたが、シーズンが変わりそれすらも打開してきた。しかし、よくよく考えれば合点がいく。
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同ブランドは「日本的な美意識」とよく形容されるが、それを「日本の伝統技術」と紐解いてしまうとミスリードが起こる。過去のインタビューを思えば、サカイカナコがいうところの「日本的な美意識」とは「偶発性と曖昧さを愛する日本人の精神性」が最も正しい解釈だろう。クリーンであったかと思えば、不必要なほどに女性性を押し出した今回のショー。この曖昧で複合的な様を「日本的な美意識=カナコサカイ」と言わずに、なんという。思えば、ショーのBGMに用いられたドラムセットも、大小様々なシンバルや打楽器などが複数個組み合わさって生み出される。カナコサカイというブランドも、また、我々にはまだ見せていない“シンバル”や“打楽器”を隠し持っており、今回たまたま見せてくれたのが女性性だったのだろう。
今回、カナコサカイの複数性の中から見せてくれたのは、リリースの言葉を借りればサカイが苦手としてきた「女性性」だ。想像するに、この「女性性」は女性解放思想のような生やさしいものではなく、男臭さすらあるものだと推察する。
話は横道に逸れるが、ウィメンズブランドには「強い女性像」を掲げるところが多い。わざわざ列挙する野暮なことはしないが、この「強い女性像」というものはかなり厄介で、女性個人のパーソナリティを礼賛する一方で、全てを同一の「強い女性」に集約してしまう恐ろしさもある。ここからはごく個人的な意見だが、強くない女性は「個」ではないとでも言わんばかりだ。「強いだけが女性でもないだろう」「ボディコンシャスな服を自分のためだけに着ることだけが強さでもないだろう」と首を傾げたくなる。“女性らしさ”だけが先行して、どうにも私自身が置いてきぼりになりがちなのである。そして、「ピンクは女子のもの」「フリルは女の子らしい」という女性らしいイメージは、社会という装置が生み出した幻想であり、幻想そのものに振り回されている感も否めない。極め付きに、昨今の「SNS拡散」という、警察よりも強力な人の正義によって「女性らしさ」という言葉そのものも言葉狩りに合う可能性すらある。そうなると「もう放っておいてほしい」と、先ほどの「こういう風になりたいからこの服を選ぶ」という考えからは遠いところでファッションを楽しむしかなくなってしまうのだ。
他方、カナコサカイが今回試みたのは単純な女性性ではないと感じた。サカイは、マリリン・ヤーロムの「乳房論」を引用しながら下記のように綴る。
『自分の選択が実は自分本来の希望ではないことに気がつかぬまま、他の人を楽しませるための商品を選んでいる』とヤーロムは書いている。
「女性性」は、そもそも社会によってかたち作られてきた。
いや、「女性性」に限ることもない。
自分という存在は、つねに他者によって規定されてきた。
時に欲望の存在にもなり、時に乳児を養うものにもなり得る乳房は、今回のショーで他者に翻弄され続ける「女性性」のメタファーとして存在する。例えば、ルパン三世に登場する峰不二子は、自立した強い女性像のみで語れる存在ではなく、性的搾取を助長するキャラクターにもなり得るだろう。今回、サカイがコーンブラで乳房を強調したのは、マリリン・モンローや峰不二子のような、欲望される女性の身体性を突出させたファッションを「昔の過ち」「過去の産物」と一括りにし、議論を止めてしまうのは簡単だと知っているからなのではないだろうか。人々が、正しさを武器になんとなく閉めていた蓋を開けることで始まる造形(デザイン)もある。
股上がハートマークに大きく切り抜かれたパンツも、1920年代、セックスを目的としたであろう下着から着想を得たそうで、清々しいまでに性を押し出したデザインに真っ向からサカイは向き合った。ファーストルックではシースルートップスに隠れていたコーンブラや乳房は、ルックが進むごとに隠すことを厭わなくなり、自分の本当の選択で生まれた情熱が跳ね返るように真っ赤なルックで幕を閉じる。
カナコサカイが、女性解放を目的としていたはずの画一化された「女性」を、究極の女性性(=乳房)で打開してくれる様をみながら、コーンブラを世の中に広めたジャン=ポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)が、ミュージカル「ファッション・フリーク・ショー」で言っていた言葉を思い出していた。
「ファッションとは宗教や文化、慣習にとらわれずにすべて取り込んで解放すること」
みんな同じじゃなくていい。その人だけの美しさを自らで選ぶことに、意味がある。ファッションとはそういうものである。そんな忘れかけていた当たり前のことを、そっとカナコサカイは語りかける。
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