ランジャタイの伊藤幸司(左)、国崎和也(右)/目黒にあるグレープカンパニーの稽古場前
Image by: FASHIONSNAP
地方出身の著名人たちが、上京当時を振り返る連載企画「あの人の東京1年目」。2組目は、お笑いコンビのランジャタイ。鳥取県出身の伊藤幸司と富山県出身の国崎和也は、NSC東京校(吉本興業の芸人養成所、以下NSC)での出会いをきっかけにコンビを結成。地下芸人として切磋琢磨した日々を経て、M-1グランプリ 2021ファイナリストへの選出をきっかけに、一気にお茶の間での知名度を獲得する。今では“芸人が憧れる芸人”との呼び声も高い2人のルーツとは? 夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。
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伊藤幸司の場合
いずれは地元を出るつもりだった
故郷の鳥取は、山に囲まれた、自然しかない町でした。地元愛はないし、いずれは地元を出るつもりで学生時代を過ごしていました。幼少期は、本当に暗い子どもで。誰とも喋らないし、家でもあまり喋らなかった。頭の中では色々考えても外には出さず、全部自己完結していましたね。
小、中学生くらいの頃に、ナイナイ(ナインティナイン)さんのオールナイトニッポンを聞くようになったのが、お笑い好きになったきっかけです。高校生になった頃、親に「芸人になりたい」と相談したんですが、家で面白いことをするタイプではなかったので、当然反対されて。NSCに入る前に東京の大学に進学したのも、東京に行くための口実という部分が大きかったですね。
NSC入学から3ヶ月で退学に
鳥取から上京する場合、東京に行く前に一度大阪を経由することもできるけど、僕は迷わず東京を選びました。先に大阪に行ってしまうと「売れてからじゃないと東京に行けない」という感覚があって。最初から東京に行った方が早いだろうと考えたんです。
大学時代は、ほとんど授業に出ずにひたすらカラオケでアルバイトをして、NSCの学費の40万円を貯めていました。当時は大学のキャンパスがあったたまプラーザに住んでいて、2年で大学を中退すると同時に東京に引っ越しました。一番長く住んだのは中野かな。6年くらい住んでいたので、中野〜高円寺あたりは東京の中でも思い出深い場所ですね。あとは、東京の中なら秋葉原が一番好きです。街全体が好きで、いると心が落ち着くんです。目的地があって行くというよりは、散歩によく行きます。
NSCは大学中退後の2006年、21歳のときに入学しました。国崎とはクラスが同じで、苗字が五十音順で近かったからか、自然と仲良くなりました。でも僕は入学から3ヶ月が経った頃に、先生から目をつけられて退学になってしまって。その時はもう「終わったな」という感情が真っ先にきましたね。NSCに入って吉本所属になる道しか、当時は芸人になる方法を知らなかったんです。それしかなかった。
でも、僕が退学になった3ヶ月後に、国崎もNSCを辞めて、コンビを組むことになって。紆余曲折ありながら、ここまで来ました。僕はこれまで、馴染めない環境とか、何も乗り越えてこなかったんですよ。今でも、友達の作り方はわからないし。「自分はそういう人間だから」と割り切っている部分もあるけど、それでもなんとかなった。だから今、上京したてで不安なことがある人も、なんとかなるので、そのまま日常を過ごしてください。
国崎和也の場合
テレビと漫画に夢中になった少年時代
僕は富山県の氷見市出身で、伊藤と同じく山に囲まれた町で育ちました。インチキをするおもちゃ屋さんとか、ずるい大人がたくさんいて、ちょっと油断したら金を取られるような、怖い町でしたね。
子どもの頃は明るくてよくボケる、いつも友達とはしゃいでいるタイプでした。テレビっ子で、特に「学校へ行こう!」を夢中になって見ていましたね。V6さんが大好きで。僕のお笑いは100%「学校へ行こう!」から影響を受けていると思います。漫画も好きで、漫☆画太郎先生が大好きでした。「つっぱり桃太郎」とか、先生の作品は全部打ち切りになるんですけど、それが面白くて。漫画から影響を受けることが多くて、幼稚園から小学校までは「キャプテン翼」の影響でサッカー、中学は「スラムダンク」を読んでバスケ部に入りました。高校では「テニスの王子様」の影響を受けてテニス部に入って、最後は「ヒカルの碁」の影響で囲碁部に入りました。やりたいことには手当たり次第に手を出す、好奇心旺盛な子どもでしたね。
富山では、みんな漠然と「大人になったら東京に出たい」という共通意識があって、周りの友人も東京に上京する人が多かったです。僕が通っていたのは工業高校だったから、卒業後は就職するのが自然な流れで。僕も就活をしたんですけど、全部落ちたんですよ。内心「多分ダメだろうな」と思いながら受けていたから当然だけど、そうしたら周りの友達から「就職が決まらないなら芸人やりなよ」と囃し立てられて。「いけるよ!」と言われたら本当にいける気がしてきて、NSC行きを決めました。
紆余曲折の地下時代も“ずっと楽しかった”
僕が東京で最初に住んだのは、NSCの近くでした。当時、NSCが大井町にあったので、その近場でアパートを借りていましたね。大井町は、ほぼ銀座ですよね。昔も今も、銀座が好きなんです。西麻布もそうだけど、やっぱり芸能人の街というか、他の地域と文化が少し違うじゃないですか。でも、上京当時から不思議と肌に合っている感じがしましたね。
当時のNSCにはラッキィ池田さんのダンスの授業があって、僕はお笑いの授業は出ずにダンスばっかりやっていました。別に必修でもなんでもないから受講生はめっちゃ少ないんですけど、唯一楽しんで受けていましたね。でもダンスばかりしていても仕方ないなと、伊藤の退学から3ヶ月くらいが経った時に、辞める決意をしました。
NSCでは退学は日常茶飯事で。伊藤が退学になったのも、先生の気まぐれというか、多分「気に入らない」の延長で、そこまで珍しい話ではなかったんです。他にも退学になる人はいっぱいいたし、卒業して吉本所属の芸人になれる人数は決まっているから、最後には卒業できない母数が多すぎて、じゃんけん大会になるんですよ。2人1組でじゃんけんをして、負けた人は全員卒業できない。40万円の学費を払って最後はじゃんけんって、すごい話ですよね(笑)。
NSCを辞めてからも、伊藤とはよく遊んでいました。ある日、伊藤が「ソニーにお笑いの事務所(SMA HEET Project)ができる」と話を持ってきてくれて、一緒にオーディションを受けてコンビで所属することになったのが、結成の経緯です。その後、ソニーを退社してしばらくフリーで活動して、オフィス北野に入ったんですが、2018年にオフィス北野がなくなったので、またフリーになって。今はグレープカンパニーにいますけど、これまでずっと、あまり深く考えず、流れに身を任せてきました。自分たちのペースで続けて、気付いたら今、みたいな。
個人的には、フリーで地下ライブに出ていた時代も「苦労した」という感覚はなくて、むしろ人との出会いには恵まれたと思うし、ラッキーだったと感じています。辛い思い出もない。お客さんが7人しか入らないライブでも、満席に見える椅子の並べ方をしたり。なんだかんだ、ずっと楽しくやってきたかな。オフィス北野にいた時になくなると聞いた時も「やばくない?そんなことある?」って笑っちゃってたし。舞台に上がる時も、緊張よりも断然「楽しい」が勝つんですよ。前に、M-1の3回戦でネタが全然ウケなくて。ウケなさすぎて逆に面白くなってきちゃって、途中、笑いそうになったんですよ。「これ、絶対落ちてるわ」みたいな(笑)。ずっとそんな感じですね。
だから、上京したての若者に何か伝えるとするなら...なんでも楽観的に考えるのがいいんじゃないかな。たとえば、漁師の方は「魚が釣れない」と悩むことがあると思うんです。でも、いずれ絶対釣れるから。「船のエンジンが壊れた」と悩むこともあると思うんですけど、それも直せばいいから。大丈夫です。
◾️あの人の東京1年目
第1話:歌手・タレント 研ナオコと原宿
第2話:お笑い芸人 ランジャタイと大井町(旧NSC)
第3話:アンジュルム 佐々木莉佳子と赤羽橋
第4話:オカルトコレクター 田中俊行と清澄白河
第5話:お笑い芸人 エルフ荒川と神保町
第6話:役者 佐藤二朗と登戸
(編集:張替美希)
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