ウィーンの街にディスプレイされていたシーレの人形
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会期中も会期後も読める新たな批評の在り方を模索。会期後のレビューではなく、会期中の展覧会を彫刻家で文筆家の鈴木操がレビューする同連載。第9回は、東京都美術館で開催されている「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」について。鈴木は同展をどう見たのか。
目次
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ウィーンという芸術の都で生まれたエゴン・シーレ(Egon Schiele)は、早世であったにも関わらず、観る者に強烈な印象を与える個性的な作品によって、現代でも非常に人気のある芸術家である。その証拠に、現在東京都美術館で開催されている「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」展の会場は、コロナの流行を克服したと言わんばかりに、世代を問わずたくさんの人たちで賑わっていた。
エゴン・シーレ展ではなく「ウィーン分離派展」?
ところで本展は、エゴン・シーレの作品を観賞することを目的とした観客からは、全体の作品数の割合的に、もはやウィーン分離派展ではないかという声も聞こえてきそうだ。なぜならば、エゴン・シーレ展と掲げているにも関わらず、展示作品の半数がウィーン分離派の作家による作品だったからだ。しかし、エゴン・シーレの特異な作家性を理解するためには、彼が影響を受けたグスタフ・クリムトおよびウィーン分離派に触れることは必須である。またウィーン分離派に結実していた華やかな姿のウィーンと、エゴン・シーレが体現した混沌とした姿のウィーンを対比的に見せていくことは、レオポルド美術館にとってオーストリア芸術を系譜的に浮かび上がらせる重要な指針であるだろう。そのうえで、対照的なウィーン分離派とエゴン・シーレの作品を織り交ぜながら構成した本展覧会は、極めてオーセンティックな展示内容であったと言える。本記事では展覧会の企画方針に倣い、シーレが生きた20世紀前後ウィーンの成り立ちの背景としてある19世紀ヨーロッパの混沌とした状況に触れつつ、ウィーンという都市とそれに抵抗したシーレが構築したアーティスト像へと、筆者の視点から迫りたいと思う。
歴史と情勢とは切り離せないウィーン分離派
現在では一般的に、20世紀前後の芸術の中心地はパリであったと認識されているが、他方でウィーン分離派やエゴン・シーレを送り出した世紀末ウィーンの芸術が、現在においてもこれほど注目され続けるのは一体何に由来するのかは一考に値するだろう。筆者の考えではそれはひとえに、ウィーンという都市が歩んだ歴史的経緯に深く関わる。なぜならウィーンにはフランス革命とイギリス産業革命を中心とする19世紀ヨーロッパの混乱が様々に現れているだけでなく、それ以前の広大な神聖ローマ帝国時代に由来する多民族性が、特異な文化的様相として現れている。例えば、1809年にウィーンで発足した聖ルカ兄弟団=ナザレ派は、ナポレオンによるウィーン侵攻という特殊な戦争状況をきっかけに結成。その状況にあって、ウィーン美術アカデミーを去ったナザレ派が目指した拠点はパリではなくローマであり、イタリア初期ルネサンスや、初期ネーデルランドのキリスト教美術から強い影響を受けた彼らは、ナポレオン戦争後のウィーン体制下でより強まった政治的で制度的な新古典主義とも違う、別の方向へと進んでいった。フランス革命とイギリス産業革命によって混沌としていた当時のヨーロッパの世相を鑑みると、ナザレ派はナポレオン戦争によってフランスに芸術作品が収奪される文化的危機に瀕する中、精神的に確固たるものとしてあった宗教美術に立ち返る文化的な保守であったと思われる。いずれにしても、美術史上初めて現れたとされているナザレ派の反アカデミックな精神は、翻ってウィーンという都市が体現している歴史的な環境を早くも際立たせている。
視点をヨーロッパ諸国の社会的状況に移すと、ナポレオン戦争の混乱を収束させるために敷かれたウィーン体制という専制的な制度が、さまざまな抑圧を民衆に与えていた。その抑圧に抵抗するために、自由主義とナショナリズムの運動が各地で起き、遂に1848年、フランス二月革命を皮切りに、ウィーン体制を終焉させるウィーン三月革命が起こっていく。こういった社会の転回から、徐々に国民国家や民族主義といった帰属意識や、また今で言うところのアイデンティティ意識が各地の民衆に生まれ、この混乱の時代を生きていくための時代精神となった。特に多民族なオーストリア帝国にとって、王政という権威的統治だけでなく、多民族・多文化の共生共存が可能な空間的仕掛けが必要となりつつあったのは想像に容易い。
このような時勢のなか、1857年にオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ウィーンの市壁の撤去とその跡地に「リンクシュトラーセ(通称リンク)」という環状道路および、それを取り巻く建築群を建設する計画を指示する。パリの都市改造に倣って立ち上がったと思しきこのリンクの計画には、ウィーン体制が崩壊した後の、新しい時代に対応しようとする統治者側の両義的な歴史主義が随所に現れている。実際にリンクの周りにはギリシア、ゴシック、ルネサンス、バロックと過去の様々な様式で建てられた建築群があり、それはまるで現実の建造物を利用した博物館的アーカイブを構築したかのような様相なのだが、ここには統治者の復古的な自意識が現れているように感じられる。またこの過剰に装飾的な折衷主義は、ウィーンが総合芸術の都市と呼ばれる所以でもあり、のちに建築家アドルフ・ロースが、かつてクリミア王ポチョムキン将軍が急造したとされる書き割りの村の伝説にちなんで、この都市の張りぼてのような装飾性「ポチョムキン都市」と痛烈に揶揄することになる。このような時代の流れと共に、リンクの計画は王政復古的精神に後ろ髪引かれた宮廷文化の形骸化と欺瞞(ぎまん)を象徴するものとなっていく。
オーストリア国外で活発だった国際的な万博博覧会
ところで、こういったオーストリア国内での国民国家や統一的な民族という自意識を形作る制度的な動きと並行して、国外では各国が自国の成果を他国へアピールして啓蒙し合う、国際的な万国博覧会が開かれていく。1851年にロンドンで1回目として催されたロンドン万博は、英国に他国への強い文化的な競争意識をもたらしたことで知られているが、1873年に第5回として開催されたウィーン万博は「文化と教育」がテーマ。フランスの影響に迎合しているだけに留まらない、オーストリア独自の達成が評価され、ウィーンの総合芸術都市としての在り方が国内外において認知されていく。この成功は、対外的な競争意識と国民国家という“集団”的な観念を強固にしていく半面、芸術における普遍的な志向性と芸術家という“個”の存在への関心を高めたと思われる。この時期のヨーロッパ諸国は、万博博覧会によって他の文化と相対し、自国の文化、あるいは現在ではアイデンティティと呼ばれる“自己”の意識が急速に肥大した時代に直面していた。その最中、他者に見せるための自己を急いで形成していく文化的過程において、芸術家はナショナリズムや政治的制度に巻き込まれていった。のちに現れるウィーン分離派がその過程に応じた機能を発揮してきたのは言うまでもない。現在開かれている本展覧会も、その意味において分離派の時代を超えた活動の一環であるとみた方が良いだろう。
集団と個、ウィーン分離派は何から「分離」したのか
30年にわたって行われたリンクの都市計画の中には当然、博物館や美術館の建設も含まれていた。宮殿のような様相のウィーン美術史美術館の壁画装飾には、演劇的かつ大胆な歴史主義作品で時代の寵児となっていたハンス・マカルトとともに、若きグスタフ・クリムトも携わっていた。クリムトにとって都市計画の装飾(=マカルトの歴史主義が全体に反映されている以上、マカルトの美学と言って差支えないだろう)と関わった経験が、後のウィーン分離派の活動において重要な基盤となっていることは間違いない。だがもともとは分離派という名前が示すように、当時の美術界の権威的組織であるウィーン造形芸術家組合の保守主義に反発し、同時代の英国のアーツ・アンド・クラフト運動などの国外の最新の芸術動向にも関心を寄せるような、純粋に芸術的な関心の促進を目指している団体のはずであった。しかし、分離派たちの作品や展示に現れていた装飾性や演劇性からは、前世代のマカルトの美学からの影響が随所に見え隠れしている。極端に言ってしまえば、筆者の目には、ウィーン分離派はリンクの都市計画に内包されてしまっているように映る。というのも、分離派が目指した純粋芸術と応用芸術の垣根を取り払い、芸術を区別して扱うことを撤廃するという理念は、まさにリンクの都市計画が体現した総合芸術的な折衷主義的ヴィジョンでもあった。実際にウィーンという都市の文化的アイデンティティのシンボルとして、分離派が現在も機能し続けていることが、その証左でもあるだろう。
その一方でエゴン・シーレは「自画像」というモチーフを通して、ウィーンに生まれ育ちながらも、ウィーン分離派とは違う方向性を見ようとしていた。初期の画業においてはクリムトから影響を受けていたが、1910年頃を境にクリムトや分離派が主要に扱った装飾性を脱ぎ捨てるように、自己、他者、男女を問わず「裸体」を中心的なモチーフとするようになる。また先述したアドルフ・ロースがブルジョワジーの欺瞞をウィーンという都市の景観に見たように、当時のウィーンが抱えていた社会的な矛盾に対して、若いシーレが抵抗の手段として裸体自画像を主要なモチーフとして扱っていくことは必然であったと思う。
シーレは、自らが自慰をする裸体自画像のようなスキャンダラスな作品によって自己中心的なナルシストと形容されることも多いが、本来そういった脚色的な見方は避けるべきであり、彼は単に過剰なまでに“自己の精神活動を観察していた”に過ぎないのではないか。例えばフランスで興った印象派は既に、“自分に見えている”風景を描くことで、世界と自我の一致を描いていた。印象派から影響を受けたシーレも裸体自画像を描くことで、世界と自我の一致を別の方法で描こうとしたと考えるのは自然だ。様式と方法は違えど印象派とシーレに共通する制作態度は、世界と自我の対称性を構築することであり、芸術作品を触媒にして世界と自我の均衡を実現する作業であったと考えられる。19世紀の混沌とした状況の中で生じたロマン主義以降の芸術の実践は、このような傾向を強く持っており、彼らは社会と文化の混乱を克服することに果敢に挑んだのだ。シーレも例外なくそのような時代的主体性をオーストリアにおいて育んだのであり、万博博覧会などに象徴される国際的な時代精神として生じていた「アイデンティティ」という観念が一体なんなのか、ある意味で自身の “精神”を実験対象にして解剖調査していたと言えるだろう。
文化の変動期、シーレの同時代性
図らずもこのような精神への解剖学的態度は、ほぼ同時代を生きたドイツの哲学者ヴィルヘルム・ディルタイの精神科学という方法と重なるところがある。時代の歴史的で文化的危機にあってディルタイは、ドイツロマン派のノヴァーリスなどを通して、自我のアナロジーにしたがってしか把握しえない世界があることを論じており、理性と感情の綜合としての精神を回復させることを目指していた。またちょうどシーレが出生した頃、ウィーンの心理学者ジークムント・フロイトが、人間の精神活動を未知な領域として研究対象とし、精神を再発見しながら精神分析学を創始していく。この時期、つまりフランス革命とイギリス産業革命の影響によって文化に決定的な変化が現れだした19世紀末ヨーロッパにおいて、人間の精神活動への探求が様々な分野で深まっていく中、シーレは明確に芸術分野における精神活動を探求する先鋒であった。そもそも近代以降の芸術家の多くはその仕事において、異質なものや未知のものなど、社会において隠されていたり疎外されているものとの調和や克服を行っている場合がほとんどである。シーレはおそらく自身の中にある欲望や精神活動に異質さや未知なものを感じ取っていたのだろう。20世紀の芸術に決定的な影響を残したフロイトは後に、“文化とは社会を構成する人々の欲望を抑圧し断念することを強制するものだ”、と文化について分析している。一方、シーレは芸術活動が文化としてありながらも、文化によって抑圧された野性的な欲望を昇華する行為であるということを直感的に見極め、その二重性にきわめて自覚的な芸術家であった。シーレの絵画は、ウィーンという都市文化が歴史的に構築してしまった社会的な抑圧を告発する。その意味で言えば シーレは自らのアイデンティティを確立しようとしていたのではなく、アイデンティティの解体を目指していたのだ。ウィーン分離派とのコントラストは、この地点に至ってもっとも高まる。
時代は変わって、ナルシスティックな現代社会においても、アイデンティティ・ポリティクスは芸術の主要なテーマとしてある。すでにマーケティングとコンシューマリズムの循環によって、インターネット空間も含む都市空間は隅々までデザイン製品に埋め尽くされ、アイデンティティの装飾化は進んでいる。その状況下、シーレの作品はウィーン分離派の彼岸にあって、装飾的なアイデンティティの向こう側にある私たちの精神=身体へ深く語りかけ、剝き出しの世界を私たちに垣間見せようとしてくれる。このシーレが作った文化の非常口への危険な誘いに乗るか否かは私たち次第であり、すでに1年が経ってしまったウクライナ戦争に直面し続けてる現代も、おそらく文化の変動期であり、改めて私たちの精神とは何か問う必要があるのかもしれない。いずれにせよ、未だ芸術の可能性の中心がここにあるのは間違いない。
彫刻家/文筆家
1986年生まれ。文化服装学院を卒業後、ベルギーへ渡る。帰国後、コンテンポラリーダンスや現代演劇の衣裳デザインアトリエに勤務。その傍ら彫刻制作を開始。彫刻が持つ複雑な歴史と批評性を現代的な観点から問い直し、物質と時間の関りを探る作品を手がける。2019年から、彫刻とテキストの関係性を扱った「彫刻書記展」や、ファッションとアートを並置させた「the attitude of post-indaustrial garments」など、展覧会のキュレーションも手掛けている。
(企画・編集:古堅明日香)
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