Image by: 沢井卓也
人気美容師の半生にフォーカスするインタビュー連載の第12回。今回は圧倒的センスで業界に名を馳せるjurkオーナー・沢井卓也さんの半生に迫ります。美容室とアパレルの複合施設というヘアサロン形態を名古屋と東京に立ち上げた沢井さん。進むべき道を早々に見つけていたと思いきや、30歳になるまで自分が何者なのかわからなかったと言います。彼が歩んできた道筋を、自身が撮影したインスタントカメラの写真とともに辿ります。
#12 沢井卓也(さわいたくや)
インスタグラム
1986年生まれ。愛知県出身。中日美容専門学校卒業後、名古屋の人気有名店を経て、2019年名古屋にjurkをオープン。2022年1月には東京店をオープンさせ、アパレルやコスメ、ネイルを併設した唯一無二のヘアサロン形態を展開。美容師のファンも多く、卓越したセンスやブランディング力は業界からも一目置かれている。自身もモデルや著名人の顧客を多く持ち、ファッションやライフスタイルに似合わせたヘアデザインに定評がある。
【店舗プロフィール】
jurk ユルク
業界トップクラスの美容師が在籍するトレンドヘアサロン。一人ひとりにフィットするヘアデザインを得意とし、丁寧なカウンセリングでファッションからヘアデザインまでをトータルに提案。名古屋店、東京店ともにアパレルやネイル、コスメがある複合施設で、名古屋店は1Fが美容室、3Fがアパレルとネイルサロンとなっている。現在取り扱っているブランドは「Little $uzie (リトルスージー)」、「フミエ タナカ(FUMIE TANAKA)」、「MURRAL(ミューラル)」、「AKIKOAOKI (アキコアオキ)」など多数。芸能人付きのファッションスタイリストが、度々衣装のリースに訪れることも。
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ーjurk最大の特徴といえば美容室とアパレルの複合施設という部分です。なぜこの形態にしようと思い立ったのでしょう?
さまざまな経験を重ねながら、「服って素敵だな」という思いがどんどん強くなっていったのが大きな理由です。
僕は30歳まで自分が何者なのか、何をしたいのかもわかりませんでした。わからなかったからこそ、何事もNOと言わずに本気でやり続け、その結果見つけたのが今のjurkです。今はファッションとライフスタイルにフィットした“洗練されたデザイン”をコンセプトとしています。
jurk 東京店のアパレルブース(右)とネイルサロン(左)。各フロアの区切りにはゆるやかな段差があり、空間の雰囲気を取り仕切っている
中学で決定していた美容師への道
ーjurk創立までの経緯をゆっくり聞かせてください。まず、美容師になろうと思ったきっかけは?
美容室に行くのが好きで、中学生のときには既に美容師になりたいと言い始めていました。
高校入学前に髪型をガラッと変えたとき、その変化を実感したことも大きいかもしれません。「髪型で人生変わるんだ」と体感し、自分もそれを提供する側になりたいなと。
ー高校は名古屋市内でも指折りの進学校に進学、その後は中日美容専門学校へ進まれます。就職活動はどのようにされたのでしょうか?
特に東京の美容室に行きたい願望はありませんでした。今と違って情報が何もない時代だったので、「美容師になれればいいや」という感じです。
いよいよ就活となったとき、名古屋の人気有名店を同級生30人以上が受けるというので、「ここ受かったらすごいぞ…!」と僕も受けることに。ご縁があり、その有名店から内定をいただきました。
ー当時、なりたい美容師像などはあったのでしょうか?
なかったですね…。たぶん、僕たちの世代の多くは理想像とかは特に持ってなかったんじゃないかなあ。SNSから情報が入ってくることもないし、イメージしづらかったのかもしれないですね。どちらかというと、美容師になってからのほうが深く掘り下げて考える時間が多かったように感じます。
次々訪れた試練が今の武器に
ー人気有名店に入社後は?
1〜2年目は問題なく働いていたのですが、3年目の年に突然お店のカラリストが全員辞めてしまうという出来事があって。カラーができる人が誰もいなくなり、当時店で一番カラーが上手なのはアシスタント3年目の僕、という特殊な状況になってしまったんですよ。
ーかなりピンチな状況ですが、どう切り抜けたのでしょう?
自分が率先してやらなきゃいけない状況に立たされ、「とにかくカラーを学ばなければ」とあらゆるカラー講習に通い詰めました。そのおかげで、そのころからカラーが自分の明確な武器になったと思います。
さらにその後、今度はヘアスタイリストが全員辞めてしまうという出来事もありました。
ー試練が次から次へと降ってきますね…。
25歳くらいのときでしたね。みんなが辞めてしまった分、いろんな客層のお客さまをすべて僕が担当しなきゃいけないという状況になったんです。
このとき、コンサバなテイストから高齢のお客さまの髪まで幅広く担当させてもらえたのは、貴重な経験でした。例えば、今、80sや90sのデザインがリバイバルしても、「あ、あのときのおばあちゃんも同じようなことを言っていたな」と頭の中でリンクしたり、経験を現在のサロンワークに活かせている感覚があります。
ー置かれた環境から着実に経験を積み、ご自身に還元してきたのですね。
また、辞めた先輩に言われた「沢井くんはそのままだと、普通の美容師になっちゃうよ」という一言も、僕が奮起するきっかけのひとつでした。25歳の何者でもなかった僕にとって、それはとてつもなくショックで…。
ー悔しかったのですね。
はい、とにかく悔しかったです。みんな辞めた後は僕が一番上になることがわかっていて、下の子たちについてきてもらうためには、僕自身が何かやらなきゃということだったのだと思います。先輩に発破をかけてもらい、土地柄からも自分が行動しないとだめなんだと気づかされました。
ーというと?
名古屋の美容室は東京ほどチャンスがないんですよ。中心地である東京はメディアや媒体が“勝手に”探してくれますが、名古屋は自分から探されるようにならないとだめなんです。
ー25歳で火がついた沢井さん。具体的にはどういう行動を?
まず、会社でやらせてもらえる仕事は死にものぐるいでやりました。主催側としてファッションショーを取り仕切る仕事があり、会社の代表として5年間ショーに携わったことは今でも僕の財産です。衣装のフィッティングからモデルの仕込み、アパレルの方や演出家さんとの打ち合わせまで1人でこなし、多忙で15キロほど痩せてしまったこともありました。
このショーの経験から、“服を前に出す”ことに慣れていったように思います。スタイリングした服にヘアを合わせていく作業です。それともうひとつ、25歳から取り組んだこととしてヘアコンテストがあります。
ー沢井さんはかなりのコンテスターだったとか。
出られるものはすべてエントリーし、年6回ヘアコンテストに出場する生活を30歳まで続けました。出始めてから2年目には出場した大会の半分が入賞するようになり、3年目からは出た大会すべて入賞するように。最終的には全国で戦えるようになっていきました。
コンテストでは、ブランドのルックを想定して作品をつくったりしていました。例えば衣装に「マメ クロゴウチ(Mame Kurogouchi)」を使い、次シーズンはこれだろうとヘアからつくってみる。「gap PRESS」や「MODE et MODE」を読み漁り、今一番リアルな服を他県まで探しに行ったり、デザインをつくることに妥協しなかったですね。めっちゃ借金しましたけど(笑)。
KAMI CHARISMA の授賞式の際、hodosの山下さん(中央右)とmiKaさん(左)、sikiの磯田さん(中央左)と撮った一枚
“人”そのものをトータルデザインすることが好き
ーファッションにかかわる経験をここでも積み重ねていったのですね。
はい。コンテストの出場経験から、“ヘアと服で人をつくること”に慣れていき、次第に自分の強い興味がファッションにあること、そして“人”そのものをトータルでデザインすることが好きだということに気づいていきました。
ちょうど30歳くらいのときに自分のやりたい方向性が定まり、信頼できるおしゃれなメンバーでかっこいいことをしたいとjurkを立ち上げました。
スタッフ同士はとても仲がいい。名古屋店の忘年会で
ーこれまで経験されてきたことが、現在のjurk創立に深くつながっているのですね。
もし、何をすべきかわからず悩んでいる方がいらっしゃったら、まずは人の真似でもなんでもいいので、とにかく動いてみてほしいです。取り組んだもののなかで評価されるものがあると思うので、まずはそこを徹底的にやり込むのも手です。すると、自ずと自分のやりたいことや進むべき道が見えてくると思います。
自分が何をすべきなのか道筋が見えてきたら、それに向かって好きなことをする。僕は時間がかかりましたが、見つけるのが早いか遅いかの違いだけだと思います。
新ルック撮影中の沢井さん(左)
僕よりもスタッフが作る髪型が真似されたい
ー今後のjurkの展望は?
多くを求めようという気はないのですが、優秀なスタッフやおしゃれなサロンを背負う立場として、“jurkのオーナーとして求められていること”をやりたいと思っています。客観的な視点を持ちながら、世の中からかっこいいな、おしゃれだなと思われることにやり続けたいです。
今、jurkで“売れている”スタッフは24〜26歳くらいなのですが、彼らが30手前くらいになったら、うちのテイストもだいぶ変わると思います。世の中の流れやスタッフの雰囲気を見て打ち出しも変えているので、変化を前提に模索していきたいです。
ー時代をつくっていきたい思いはあるのでしょうか?
時代をつくるということは真似をされるということだと思うのですが、そういう意味だと、僕自身はあまり真似されたくないんですよ。
それよりもjurkのスタッフがつくった髪が世の中にどんどん真似されるようになるといいなと思っています。僕自身ではなくjurkが時代をつくる美容室になればうれしい。僕はそのトップにいる者として、世の中よりもちょっとだけ早く流行に気づき、早く飽きて、自分の飽きのサイクルをうまくつくり、スタッフに共有していきたいです。僕自身が評価されるより、お店自体が評価されるほうが何倍もうれしいんです。
よく訪れるという東京・表参道にある焼肉屋「よろにく」
(写真:沢井卓也、企画・編集:福崎明子)
編集者、ライター
出版社2社を経て独立。書籍の企画・編集、ブックライティング、記事等のインタビューなど活動中。ペンギンが好き。「now&then」の聞き手、文を担当する。
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