伝説のカフェ「カフェ ド ロペ(Café de Ropé)」のDNAを受け継ぐ表参道のカフェ・ラウンジ「モントーク(montoak)」。ファッションブランドのイベント会場に多く使われ、アーティストやクリエイター、芸能人からも愛されてきたコミュニティの場は、今月末に20年の歴史に幕を下ろす。その幕引きを惜しむ声が相次ぐ中、仕掛け人が今思うこととは? 運営会社ジュンの佐々木進社長と空間プロデューサー山本宇一氏が振り返るモントークの20年。
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ロペ派? レオン派? モントーク誕生前の東京カフェ事情
―モントークの閉店発表は多くの人に衝撃を与えました。
佐々木:SNSでかなりざわつきましたね(笑)。閉店を惜しまれるお店だったんだと、改めてお客様には感謝の気持ちでいっぱいです。
山本:最近の表参道・原宿エリアでは、一番“大事”な閉店だったんじゃないかな。何かが閉じる時って、みんなの気持ちもなくなっていることの方が多いから、モントークの閉店にこれだけ大きな反響があって嬉しかったな。
―そんなモントークの誕生時にまず遡りたいと思います。オープンのきっかけは何だったのでしょう?
佐々木:もともとここにカフェ ド ロペがあって、文化発信のような役割を担っていました。そのカフェ ド ロペが閉店したのが2001年。カフェ文化や表参道の街の状況が変化していたので、役割を終えたという感覚がありました。それで一度リセットして、またカフェ ド ロペ的な「人が集まる文化」を作って再スタートを切ろうと思って誕生したのがモントークです。
山本:ちょうど佐々木さんがジュンの社長に就任したタイミングでもありますよね。
佐々木:そうですね。カフェ ド ロペには僕も若い頃はよく通っていたし、おしゃれな人が集まっていて、当時の原宿のランドマークみたいな店でした。向こうには「レオン」があって、カフェ ド ロペ派とレオン派で分かれていましたよね。
山本:あの頃は「自分が行くならこの店」みたいに棲み分けをしていた時代でしたね。レオンはちょっと硬派で、俳優さんとか割と渋めな人が来てたかな。カフェ ド ロペはお店のための音楽テープを作って曲を流していたから、雰囲気はこちらの方が少し柔らかかったと思う。「キーウェストクラブ(KEY WEST CLUB)」もあったけど、あれは真っ白なお店でかなりバブリーな感じだったから、また毛色が違う(笑)。
―佐々木社長と山本さんは以前から交流はあったんですか?
佐々木:面識はあまりありませんでしたが、「バワリーキッチン(BOWERY KITCHEN)」や「ロータス(LOTUS)」といった話題のお店を手掛けていて注目していました。その当時の飲食業でカルチャーを感じる運営をしている人ってあまりいなかったんですよね。宇一さんなら我々の意図する部分を表現してくれるのではないかと思い、お声がけさせていただきました。思い返すと、「ボンジュールレコード(bonjour records)」の上村(真俊)さんに紹介してもらったんだっけ?
山本:そうですね。それでモントークを作る前に、2人でパリなどの面白いところを色々回ったんです。いわゆるヒップな人たちが集まるようなところに行きました。最初のコンセプトとしては「ホテルのロビーを作ろう」というところから始まったわけだけど、それはその地域のおもしろい人たちが集まって繋がっていく、そんなコミュニティが原宿にはあった方が良いと思ったし、それが次の時代のコミュニケーションの場になるとなんとなく感じていたから。
佐々木:当時はクラブとかカラオケとか“装置型の遊び”が多かったこともあって、みんなそこに集まっていましたよね。椅子とテーブルしかないところに集まってお茶して話すというのは、喫茶店ブームの全盛期で途切れていたと思う。
―個店を手掛けてきた山本さんですが、ジュンと手を組むことへの抵抗感はなかったのでしょうか?
山本:ジュンさんはファッションだけじゃなく飲食もやっていたから。今では当たり前のようにあるけど、ハイブリッドにいろんな業種を持つというのは当時あまりなかった。ハイブランドが飲食事業を始めたのもこの後ですから、驚くほど早かったのを覚えていますよ。
―時代の最先端を走るジュンとなら協業できる、と思われたんですね。
山本:そう。それに佐々木さんとは歳が近かったしね。2人ともいい意味でシティボーイだったよ。そしてボンボンでもあった(笑)。
佐々木:(笑)。
―店作りのプロセスに大きな違いはありましたか?
山本:それが全く一緒で。ジュンという企業の規模がありながら、いい意味で大企業らしくなく、トップである佐々木さんと直接話ができることもあり意思決定が早い。また、ジュンをフィーチャーするのではなく、むしろ垣根なくいろんなメーカーやブランドのポップアップをやって、この街の中のファッションというジャンルを牽引しようという意気があった。そこも英断だったと思う。僕も自分のやっているお店の延長を求めてもらえていると思って引き受けましたから、信じて良かったですね。
あえて入りづらい店にした理由
―オープン当時の表参道の様子は?
山本:原宿セントラルアパートや同潤会青山アパート、その下には個人店やギャラリーがあったりと、昔の原宿にはカルチャー寄りのおもしろい個人経営のお店がたくさん並んでいましたよ。モントーク隣の「キディランド」もファンシーグッズの店じゃなく輸入雑貨の店だったし。
でも“スター”的なお店は裏原宿に集中していたのに対し、表通りはスター不在でした。モントークは大通りに面していて、規模も大きい。こんな場所で何かやれるなら、バワリーキッチンやロータスと違うことだろうと思って、「表参道の顔」になるようなお店を作ろうと考えました。
―その「表参道の顔」となるモントークは、黒一色の外観で看板はなし。入り口も正面に設置しないという前代未聞のお店になりました。
山本:原宿・表参道という地域の特性上、すぐに“消費”されると思っていました。だから敢えてなるべく分かりづらく作ろうと。それでも真意を汲んでくれる人がこの街にはいると思っていたし、そういう人に来てほしいなという思いを込めました。
佐々木:みんな入って来ないから、最初はかなりゆったりできる空間でしたよね。
山本:今の東京で20年も保てたのはすごいことだと思う。当初はこんなに長くやる想定は全くしていなかったし(笑)。ただ、佐々木さんは「ファッションとはいつも変わるもの」だといつも言っていたから、なくなることも使命。表参道ヒルズができたことと、ファストファッションの台頭が大きい節目ですかね。街に来る人が変わりましたから。お店というのはどういう人が集まっていて、どんな空気になっているかが大事。そういう意味では、20年という良い節目を見つけられたなと思っています。
―外装・内装もオープン当初のままですね。
佐々木:補修だけしています。最初にお話したコンセプトがブレずにずっと営業してきたという事でもありますね。このソファも張り替えたりして20年ずっと使っていますよ。
山本:形見一郎という天才デザイナーとこのお店を作ることができたのは僕にとって一番の思い出です。「表参道の顔」はどうあるべきか、というのも3人でよく話してね。カラフルな街だから、ということで逆にシックにしたんですよ。むしろその方が目立つから。黒いガラスにモルタルが剥き出しの外観だけど、中に入ると実は明るい。ツンデレ的なお店です(笑)。でもそれが「カルチャーの顔」になる。内観も、どの席からもいろんな席が見えるようにして劇場的に店を作ったり、入り口は隠れているけど街と繋がっている感じにしたくてテラスは道路に面する位置にしたり、いろんな仕掛けを施しました。彼はもう亡くなってしまったから、彼の作品がこの先増えることがないというのが一番心残りかな。
―佐々木さんの思い出エピソードは?
佐々木:オープン時のイベントで(藤原)ヒロシさんがDJをしてくれたことがとても印象に残っています。ヒロシさんはその後ぐらいからDJをあまりやらなくなったので、かなり貴重だったと思います。あとはいろんなブランドやクリエイターがパーティーやイベントで使ってくれたことも思い出深いです。
山本:東京のパーティー文化ってモントークが先駆けで、それをみんな追随して切磋琢磨して文化を盛り上げていくという流れがあったと思う。ところが、モントークってパーティーをするには使いにくいんですよ(笑)。従来のパーティーって来場者みんなが同じ方向を向くような形式だと思うんですけど、モントークは構造的に来場者がいろんな方向を向きながら、それぞれの場所で違うことが起きている。
佐々木:お店の作り的にも、違う角度から見える場所と隠れられる場所があるのも特徴ですね。
Image by: FASHIONSNAP
山本:近年は「モントークでやるDJは楽しい」と言ってテイ(テイ・トウワ)くんが定期的にパーティーをやっていた。独自のカルチャーみたいなザ・トーキョーな人が集い、それに憧れる人達がおしゃれして集まる。そんな東京のカルチャーがちゃんとここでは生き続けてきたかな。そんなシーンに出会える場を作れたのは大きかったと思います。
閉店はコロナ前から考えてきた
―実はコロナ前から閉店の噂を聞いていました。
山本:それは良い噂ですね(笑)。コロナが原因で閉店するわけじゃないんですよ。
佐々木:おっしゃるように、前々からモントークをどうするかという話は内輪ではしていました。
山本:「変わることに価値がある」と思っていますから、「次やることがあまり残っていないな」と感じたことも閉店の動機にはなりました。僕らも大人になってきて、頑張り方を変えるタイミングでもあったと思う。
―モントークでの20年に悔いはありませんか?
佐々木:やり切った感はありますね。東京で一番おもしろい人たちが集まれる場所を作るという役割はこの20年で果たしたと思います。
山本:最後まで「モントークに来ることがダサい」「昔は良かった」とならなかったのは良かった。
佐々木:僕たちも20年のうち15年くらいは毎月ここで打ち合わせしていたよね。
山本:その打ち合わせからもやり切った感は反映されていったということかな。佐々木さんは飽きっぽいから、ここまで長くタッグを組んだチームっていないんですよ(笑)。これだけ長く一緒にやれたというのはジュンの歴史の中でもなかったし、未練はありません。
佐々木:僕もジュンに入る前はイベント会社で働いていてイベントが大好きだから、この20年は本当に楽しかった。宇一さんとの毎月の打ち合わせでは飲食店の経営ノウハウも教えてもらってきたんですよ。今はコロナがあって難しい局面でもあるけど、文化を作るという嗜好品としての食は、服と同等かそれ以上におもしろいというのは絶対的に言える。そういったことを宇一さんから学びました。
―ちなみにモントークで好きなメニューは?
佐々木:パンケーキ。栗とゴルゴンゾーラのメニューも好きかな。
山本:僕はやはりコーヒーですかね。ここだけのブレンドがあるし。今まで色々なメニューを頼んできたけど、結局打ち合わせの時は必ずコーヒーでしたから。ちなみにコーヒーブームやパンケーキブームがありましたけど、モントークは最初からやっていたし、どこよりも早かったんですよ。
モントークは閉店しても空間は生き続ける
―20年前と比べると原宿・表参道の街並みも大きく変わりました。いま街に足りないものは?
佐々木:必要なのは「ここしかないもの」でしょうね。「チェーンオペレーションで他でも買えるんだけど、その高級バージョンがここにある」という図式は多少あるものの、業態に限らずエクスクルーシブなものがもっとあっても良いのではないかなと思う。
山本:それも「売れるから良いもの」になっていて、「良いものだから売れる」というわけじゃなくなってきているよね。良いものが結果的に売れる、原宿ってもともとはそういう場所だったはず。
佐々木:そもそも原宿って最初はローカルでしたよね。ローカルでありながら来街者も多くて、そのバランスがすごく良かった。「良い街」ってそのバランスの良さが大事だと思っています。
―そういえばモントークはコロナ前までは深夜も営業していましたよね。
山本:今は20時を過ぎると原宿から人がいなくなるんだよね。20年前だったらデザイナーとかストレンジな人が街にたくさんいたと思う。原宿の変化を感じる出来事でもあるね。
佐々木:デザイナーたちも、もう少しローカルな香りのする街に移っていますよね。ただ、ここはかなり成熟しましたが、それでも「原宿・表参道」です。これから中期的に違う魅力が蓄積されて、また違った輝きが出てくることはあるのかなと。だから別に嫌な街では全くないし、ネガティブなこともない。ここから時間が経てば色んなことが起きるだろうし、そういう時期にはここでまた何かしたいなと思います。
山本:ポテンシャルは常にあるんですよ。それに対して、モントークは有名になりすぎてしまった。それも閉店の要因。だから、また何かやる時はもっと分かりづらいことをやろうかなと。その時はリリースとかも出さないから、頑張って嗅ぎつけてください(笑)。
―がんばります(笑)。閉店後は跡地をどのように活用するんですか?
佐々木:我々の店舗を作り直すのではなく、一度賃貸に出そうと考えています。中期的に見たらまたここで何か仕掛ける可能性もありますが、まずはリセットしてみようと。今のところ、形見さんのデザインはそのまま残ることになっています。
山本:僕の好きなアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトはサンフランシスコに螺旋の建物を作ったんだけど、それが今やアフリカの民芸品を売るお土産屋さんになっていて。実際に行ってみたら、所狭しと木の像とかが並んでいるんだけど、でもその空間はライトの建築なんです。モントークもカフェラウンジとしての業態は終わるけれど、ここに来れば残り香を感じられるような事になれば、おもしろいなと思っています。
―最後にメッセージをお願いします。
佐々木:本当に今まで20年間利用していただいてありがとうございました。カフェ ド ロペで原宿の歴史を担ってきた感覚はあるけれど、モントークもそれと同等か超えるくらいの積み重ねをしたなと感じています。
山本:みんなが支持してくれたから20年やってこれたわけだからね。「伝説の店を作りたい」という気持ちでお店を作ってきたから、自分たちがやりたいと思った事にみんなが共感してくれた。それが嬉しいです。カフェ ド ロペのようにこの先もみんなが名前を覚えててくれたらうれしいですね。
■佐々木進
ジュン代表取締役社長。1965年、東京生まれ。アメリカ留学帰国後、イベントプロデュース会社のサル・インターナショナルで国内外のショーの演出などに携わる。1989年にジュンに入社。常務を経て、2000年から現職。
■山本宇一
heads代表。1963年、東京生まれ。都市計画や地域開発などのプランニングを経て、飲食業界に転身し、1997年に「バワリーキッチン」をオープン。2000年以降は「ロータス」や「モントーク」といった人気店を手掛け、東京カフェブームの立役者となる。
(聞き手:伊藤真帆)
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