ファッションの世界でも活躍する若き写真家を紹介する連載「若き写真家の肖像」。13人目は、「SWAG HOMMES」「NYLON JAPAN」「DEW Magazine」「Numéro TOKYO」「Lula JAPAN」など国内外の媒体でファッション写真を手掛ける27歳のフォトグラファー・Tomoharu Kotsuji。
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── 出身は?
鹿児島県鹿児島市です。県の中では一番の中心地なんですが、そこから少し南の方にある割と落ち着いた場所に住んでいました。街の雰囲気が、どこか世田谷っぽくて。上京した時も、世田谷は地元で自分が住んでいたところみたいだなと思って、すごく気に入りました。
── 幼少期や学生時代はどのように過ごしていましたか?
幼少期はすごく元気な子どもでした。小学校3年生ぐらいから野球チームに入って中学の途中までやっていたのですが、通っていた地元の中学がやんちゃで有名な学校で、思春期だったこともあり、少し道を逸れてしまって。学校には途中から行ったり抜けたりしながら、仲間とわちゃわちゃと楽しく過ごしていました。決して学校が嫌いだったわけではなく、学校行事には積極的に参加して、3年間応援団をやったり3年生では応援団長をやったりもしていました。中学卒業後は公立高校に進学したものの、気の合わないクラスメイトばかりで。自分の性格的にも「好きなことはとことんやるけど、興味のないことは本当にできないしやらない」というタイプなので、ほとんど友達もいない状態で3年間を過ごしていました。
── 高校卒業後は、鹿児島原田学園キャリアデザイン専門学校 TV映像音響科に入学。
僕はガラケーやギャルカルチャーがギリギリ残っていた時代に学生生活を送っていたのですが、中学時代から「メンズエッグ(men's egg)」や「スマート(smart)」「サムライイーエルオー(Samurai ELO)」といった雑誌を読んでいて、ファッションが好きだったんです。それで、高校卒業後の進路として服飾学校や美容学校も考えてオープンキャンパスなどに行ったものの、服は自分で着る方が好きだし、あまり器用ではないので人の髪を切ったりネイルを塗ったりするのも全然向いていなかった。
そんな中、イベントやライブハウスに遊びに行っていた時に、PAさん(音響エンジニア)や照明さんのような裏方の技術スタッフの仕事がすごくかっこいいなと思ったんです。当時から、いわゆる会社員のような“普通”の仕事をしたくないと漠然と思っていたこともあり、そのまま音響や照明、映像について学ぶ専門学校に入学しました。
── そこからどのような経緯で写真をやることに?
TV映像音響科だったので、1年生の頃は音響や照明などの舞台系の授業と併せて、映像や写真の授業もひと通り履修する必要があったのですが、「興味のないことはできない」という性格上、写真と映像の授業は一切出ていませんでした(笑)。でも、ライブハウスで技術スタッフとしてアルバイトをする中で、自分には作業的な仕事が向いていないことを実感していたので、1年の終わり頃にはそのままその世界で続けるべきかを迷っていたんです。
そんなタイミングで、春休みの課題で全員が一眼レフで撮った写真作品を提出しなければならなくなったものの、僕は授業に出ていないのでカメラの使い方も全くわからない。でも、F値やシャッタースピード、ISO値などを一応教えてもらって何を撮ろうかとなった時に、せっかくだからと自分が好きなファッション雑誌のスナップのようなものを撮ることを決めました。そこで、当時地元でよく行っていたアットホームな古着屋に集うさまざまな年代の人のポートレートを撮ってみたら、それがものすごく楽しかった。だから2年生になっていざコースを選択するとなった時に、「映像・写真コース」に行くことを選びました。
そこからは一気にやる気に火が付いて、授業も真面目に受けましたし、放課後も学校のスタジオに一人で残って機材を触ったり、カメラやライティング、フォトショップ(Photoshop)の勉強もしたりしました。そんなこんなで2年生の夏休みを迎える頃には、気づけばコースの中でも、写真の技術では実力がある方になっていたんです。
── 専門学校卒業後は?
専門学校を卒業したのは20歳の時。卒業を前にファッション写真を撮るフォトグラファーになりたいと思い上京も考えたものの、東京でいきなりフォトグラファーの仕事ができるわけでもないし、裏方の「スタジオマン」として働くのも、経験上自分には向いていない。ちょうど2年生の夏ごろから、ウェディング写真スタジオで結婚式やウェディングの前撮りの撮影のバイトをしていて、少しファッションっぽいウェディング写真を撮れたら面白いなと思っていたこともあり、その会社にそのまま就職することも考えていました。
でもそのタイミングで、鹿児島を拠点に活動している地元では有名なフォトグラファーの南修一郎さんの存在を知って、「鹿児島でこんなにお洒落な写真を撮れる人がいるんだ」と衝撃を受けたんです。南さんは、人物、風景、物撮り、広告写真、ウェディングと、堅めなものからお洒落なものまで何でもできる、本当にうまいフォトグラファー。たまたま学校のパンフレットの撮影で南さんが専門学校に来た時に、授業の一環としてアシスタントをさせてもらって、その時にファッションの話で盛り上がったりもして。それで、ウェディング撮影スタジオの方が雇用も給料もしっかりしていたものの、「給料が安くても絶対に良い経験になる」と思い、卒業後は南さんのスタジオにアシスタントとして入りました。
1年目は、南さんと一緒に結婚式の撮影や美容室でのサロン撮影、広告撮影などに付いて行って勉強し、2年目からは僕ができそうなものはフォトグラファーとして1人で撮影に行ったりもしながら、本当にいろいろなことを経験しました。すごく楽しかったですね。
── 鹿児島での活動時代に得たものは?
当時の経験は、自分にとってすごく大きかったですね。例えば、結婚式の撮影というのは一般的には見くびられがちなのですが、実はとても難易度が高い撮影なんです。普段あまり写真を撮られ慣れていない、一般人の新郎新婦を被写体として良い感じに撮らなければいけないですし、結婚式当日はほぼライブ撮影なので、撮り直しができない中でアルバムに必要なカットを全て確実に撮らなければならない。そのほかにも、当時は人物だけでなくさまざまな物撮りも経験していたので、ライティングの技術や加減なども含め、今でもバッグや化粧品の撮影をする際などは、当時の経験が活きているなと感じています。
── その後2020年に上京し、フォトグラファーの池満広大氏に師事。
元々、25歳までには上京して東京でファッションフォトグラファーを目指したいという気持ちがあったので、南さんの下で働き始めてしばらくしてから、南さんにもそう伝えていて。それで、東京で活躍しているファッションフォトグラファーのアシスタントに付きたいと思い、当時インスタグラムなどでいろいろな方の作品を見ていたのですが、その中でも特に「この人のファッションの切り取り方はすごい」と感じたのが池満さんでした。しかも調べてみると、僕と同じ鹿児島出身。その後、仕事で結婚式の撮影に行った際に、ヘアメイクで入っていた方が偶然池満さんのお母さんだったという出来事もあり、運命的なものを感じたんです。
その後、2020年の1月に初めて池満さんにメールで連絡を取り、近々一度東京で会おうということになったのですが、その頃ちょうどコロナ禍になってしまって。緊急事態宣言も出てとても東京に行けるような状況ではなくなってしまい、一時期は「もう上京して夢を叶えることはできないんじゃないか」と落ち込んでいました。それでもどうしても諦めきれず、夏前に「実はアシスタントになることを希望しています」と改めて連絡をしたところ、池満さんもちょうど本格的にアシスタントを募集しようとしていたタイミングで。すぐにオンラインで面接をして東京に行くことが決まり、2020年の8月中旬ごろに上京して、池満さんのアシスタントとしての生活が始まりました。
── 池満さんのアシスタント時代に学んだことや印象的だったことは?
池満さんの下では、特に現場の引っ張り方や立ち居振る舞いなど、人間性の面で多くのことを学ばせてもらいました。池満さんは、強さや独特の世界観がある写真を撮るためそれに近しい印象を持たれやすいのですが、実際にはとても物腰が柔らかく、現場の雰囲気を良くして引っ張ることが上手な方。アシスタントとも普段から近い距離感で話しかけて仲良くしてくださるので、今でも時々電話して話すくらい、当時から何でも話せるし相談もできる関係性です。
── アシスタント時代に大変だったことは?
池満さんがすごく人気のある忙しい方なので、それに合わせて自分も休みなくほぼ毎日のように働いていたことですかね。体調を崩してしまってお休みをいただき、迷惑を掛けてしまったこともありました。体力的に辛かった部分もありましたが、僕も目指すものができると突き詰めたくなってしまうタイプなので、なんとか負けずに頑張っていましたね。
── 3年半のアシスタント期間を経て、2024年4月に独立。きっかけは?
実は最初から「3年」と言われていたんですが、僕が入った頃と3年目の頃では仕事のスタイルも大きく変わっていて。より忙しくて質の高い現場が多くなっていたし、セカンドアシスタントがいたものの、2人体制でも大変だし引き継ぎなどもあったので、気がついたら3年半経っていました。でも、一度丸2年くらい経ったタイミングで池満さんとミーティングをした時に、「いよいよ最後の仕上げ段階に来てるね。もう現場での動き方もだいぶ仕上がってきてるから、あとはいっぱい作品撮りをして感性を磨いてください」と言われたんです。なので最後の1年は、池満さんが現場をどう引っ張っているかということを集中して見て勉強したり、作品撮りをたくさんして写真を学びながら、海外媒体に作品を送ったりしていました。
── 海外媒体に作品を送っていたのはなぜですか?
池満さんがファッションストーリーのような「エディトリアル」作品を手掛けるのが得意な方だったので、ただ「服を見せる」とか「ルックを見せる」のではない、ファッションストーリーとしての作品の撮り方を池満さんからすごく学んだんです。それで、僕自身も普通の作品撮りをするのではなく、毎回スタイリストと相談しながらテーマや内容、レイアウトまで全てを自分でディレクションして撮影するような、10〜12ページで構成されたエディトリアル作品をたくさん作っていました。でも、日本には雑誌は数多くあってもエディトリアルを載せられる媒体はあまりないので、海外媒体でエディトリアルの作品を募集しているところを見つけては送っていましたね。
最初の頃は、エディトリアルを撮るのはやっぱりすごく難しくて、1枚ずつで見ればかっこいい写真が撮れていても、トータルで見ると全然ファッションストーリーになっていなかった。でも、その撮り方や構成の仕方、ルックを撮る際との差別化の方法なども含め、池満さんの下にいた最後の1年でたくさん学ばせてもらいました。もちろん今でもエディトリアルは難しいですが、そのおかげで、独立してから「10ページあげるので自由にしていいですよ」といったオファーを媒体からいただいても、ちゃんとアイデアが出てくるし対応できる。だからきちんと学べる機会があってよかったなと思っています。
── 写真を撮る際に大事にしていることは?
ブランドや被写体のテイストやジャンルを問わず、どの撮影でも必ず心掛けているのは、被写体の「強さ」や「芯」を写すこと。例えば、かわいい被写体でもいかに芯があるように写すかということは、すごく大事にしています。一言で「強さ」と言ってもいろいろな表現がありますが、服やヘアメイクを強くして出すこともあれば、ちょっとした目線や表情、口の開け方、顎の角度の変化で見せることもある。それを意識するかしないかで仕上がりが全然違うので、常に自分の中で探りながら撮影しています。被写体の「強さ」を引き出すことで、現場のムードも上がってきますし、サプライズ的な写りが生まれることもあるので、なおさら大事にしていますね。
── 普段使用しているカメラは?
ルック撮影などの仕事では、基本的にFUJIFILMのGFX50Sii、XT-4、XT-5といったデジタルカメラを使っています。でも、エディトリアルや自由度の高い撮影などでは、画に変化を付けるためにフィルムカメラも使いますし、アザーカットでギミックのあるカメラを使ったりと、一つの撮影でいろいろ使い分けることもあります。特にフィルムだと一発勝負のようなところがある分、いい意味で現場に緊張感が生まれて、モデルの“芯のある表情”を引き出せたりもします。最近個人的に好きなのは、平成初期のコンデジですね。
── これまで手掛けてきた中で、特に思い入れのある作品は?
僕が初めて「エディトリアル」というものに挑戦した作品ですね。「The Forumist」というクリエイティブプラットフォームに掲載されました。
これは、普段サーカスで働いている女の子が、サーカスから抜け出して街中に入り込んで、サーカスをしながら遊んでいるというコンセプト。だから馬が登場したり、フラフープをやっていたり、風船が出てきたりしているんです。でも、実はこの撮影の日は天気が最悪で。初めてのエディトリアルだったので、ロケハンもしたしロケバスまで出してすごくお金をかけて臨んだのに、当日大雨になってしまいかなりショックでした。だから、よく見ると地面も濡れているんですけど、テーマ的にスタジオで撮るわけにもいかず、なんとか粘って雨が止む隙を見計らいながら撮影しました。すごく大変でしたが、結果的にいいものが生まれたのでよかったです。
── 今後は海外でも積極的に仕事をする予定?
あくまで日本を拠点に活動しながら、海外からも注目されるということに意味がある気がするし、そうなったら嬉しいですね。もちろん海外でも仕事をしたい気持ちはあるのですが、今は英語も全然話せないので勉強が必要だなと思っています。
── 最近注目しているフォトグラファーや作品は?
特定の人や作品、媒体ではないのですが、個人的には最近、ファッションの分野では中国と韓国のクリエイションがずば抜けてすごいと感じています。ブランドとのタイアップ撮影でも比較的自由度が高いのか、ライティングも結構作り込んでいたり攻めているものが多くて面白いし、レベルが高い。日本もクリエイションで他の国に負けたくないなと思います。
実は他のアジアの都市のクリエイションに注目し始めたのは、日本人のフォトグラファーが日本から海外に発信する意味を考え始めたのがきっかけでした。先ほど紹介した初めてのエディトリアル撮影の時、僕は当たり前のように白人の女性モデルを被写体にしていたのですが、いろいろな海外媒体に送ってもなかなか通らなかった。でもその後によく考えてみたら、日本人が日本を舞台に撮影して発信しているのに、その被写体として白人のモデルを起用しているというのはどうなんだろう、と自分でもふと疑問に思ったんです。欧米の人からしたら特に面白くないだろうし、日本の東京から発信している意味もない。それに気がついてからは、特に海外の媒体に出す時は必ずアジア人のモデルを起用するようになりましたし、東京のフォトグラファーとして日本から発信する意味を改めて考えるようになりました。
── 今後挑戦していきたいことは?
「東京のフォトグラファーとして日本から発信する」ということに関連して、最近はもう少し昔の日本のカルチャーを勉強していきたいなと思っています。鹿児島時代にお世話になった南さんも、東京の美大を出て1990〜2000年代の原宿のカルチャーをリアルタイムで経験していた世代だったので、当時のカルチャーや音楽などにすごく詳しかったんです。自分自身がかつて触れてきた音楽や映像、雑誌なども、今思うとどれもカルチャーだなと感じるので、今改めて見たり聞いたりしながら、実はエディトリアルにも要素として少し取り入れたりしています。
打ち合わせなどで同世代の人と話していると、「学生時代にコンビニの前で溜まって、スライドのガラケーを首から下げてたよね」みたいな思い出話から、エディトリアルのシチュエーションが浮かんできたりもする。いろいろな時代の日本のカルチャーを知っていればいるほど、それが写真のアイデアや日本でクリエイションをする独自性にも繋がってくると思うので、もっとカルチャーを勉強していきたいですね。
── 日本のファッション業界や写真業界に対して思うことは?
日本はどちらかというと、マスに寄り添うような雑誌が多かったり、タイアップ撮影ではクリエイティブが割とかっちりと決まってしまっているものも多い。でも、もう少しクリエイションの自由度が高まったら、より面白くなるのではないかなと思います。
── これからどんなフォトグラファーになっていきたいですか?
僕はファッションや服を撮るのが好きなので、まずはルックも含めてファッションヴィジュアルを今後たくさんやっていきたいです。そしてそれをベースに、強みとしてエディトリアルも撮れるフォトグラファーになっていけたらいいなと思っています。まだ独立して数ヶ月なので、どうなっていきたいかは未知数な部分もある。その中でも、ただ求められたものをそのまま撮るだけではなく、依頼してくださった方から「小辻さんにお願いすると予想や期待を超えるサプライズ的なカットを撮ってくれる」と思ってもらえるような存在になりたいですね。
例えばファッションブランドのルック撮影でも、服がきちんと見えているカットと合わせて、イメージカットやアザーカットとして自分の好きなものも撮って、結果的にそれを喜んでもらえたらうれしいです。
Tomoharu Kotsuji
1997年9月22日生まれ、鹿児島県鹿児島市出身。
池満広大氏のもとで3年半のアシスタントを経て、2024年4月1日よりフォトグラファーとして独立。
公式インスタグラム
= Self-Portrait For FASHIONSNAP =
■VOL.1 若き写真家の肖像 -草野庸子-
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■VOL.12 若き写真家の肖像 - 佐藤麻優子 -
■VOL.13 若き写真家の肖像 - Tomoharu Kotsuji -
(聞き手:佐々木エリカ)
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