
HATRA 2025年春夏コレクション
Image by: HATRA
はじめに
リミナルウェア。この言葉を聞いてすぐさまその意味を理解できる人はあまりいないだろう。これは2010年に設立されたブランド、「ハトラ(HATRA)」の現在のコンセプトである。以前からHATRAのことを知っている人にとっては、当初ブランドが掲げていた「部屋」というコンセプトの方になじみがあるのではないだろうか。フードに並々ならぬこだわりを見せ、部屋というパーソナルスペースを都市空間のなかに持ち込むことのできるような服を提案してきたHATRAの作品やコンセプトは明快であり、とりわけサブカルチャーの文脈に位置づけられる要因のひとつにもなっていた。
初期のHATRAはルックブックのモデルにアイドルを使ったり、サブカルチャーとみなされる領域で活動するイラストレーターとコラボレーションしたりしていたが、2018年頃からはブランドの提案するイメージががらりと代わることとなる。さらには2021年からリミナルウェアというコンセプトを掲げ、CLOやAIなど新しいテクノロジーを駆使した服作りをするようになる。この十数年のあいだに作風がかなり変化しているのだが──もちろん変わらない要素も多分にあるが──、当初のイメージが強固に作り上げられていたがゆえに、HATRAについての分析や批評が追いついていないようにも思われる。正直に告白するならば、筆者自身もHATRAについて考えるとき、やはり当初の「部屋」というコンセプトがどうしても頭から離れなかったし、これまでリミナルウェアという新しいコンセプトを咀嚼できていたとは言いがたい。したがって、言い訳めいた前置きをするならば、本稿は改めてHATRAについて考えてみた、という試論的な位置づけのものになるだろう。(文:蘆田裕史)














HATRA 2012年秋冬コレクション ー モデルにでんぱ組inc.の最上もがを起用
ADVERTISING
境界と過渡
まずはHATRAのデザイナー、長見佳祐自身の言葉を確認しておこう。長見はリミナリティという概念についてインタビューで次のように語っている。少し長くなるが引用したい。
“現在までにHATRAが行き着いたのは「liminality」(リミナリティ)というキーワードです。2021年秋冬シーズンから「リミナル・ウェア」(LIMINAL WEAR)の展開を始めました。「リミナリティ」は文化人類学の領域で「境界状況的」と訳されます。(中略)
レベッカ・ソルニットの『ウォークス──歩くことの精神史』(東辻賢治郎訳、左右社、2017)を読むなかで、「リミナリティ」という言葉を知り興味を持ちました。人はひとつの場所に根を張って暮らしているとどうしても社会的なあり方が硬直していきます。「旅」という行為には、その凝り固まった自我や場所との癒着を時間をかけて引き剥がしていく効能がある。そして戻ってきた時も、以前とは異なるひとつ上のレイヤーで、さまざまな関係性を構築し直すことを可能にさせる。かつての巡礼にはこうした効果があったという分析に、非常に共感しました。
「部屋」をコンセプトに掲げてやってきたら、奇しくもみんなが部屋にいる事態になってしまった(笑)。そんな社会で、ブランドのコンセプトに「部屋」を掲げるとは一体どういうことなんだろう、と自然と考えさせられました。僕自身も移動を制限され、衣服のつくり方や考え方を見直す時間が増えた。その結果、こうしたコンセプトに行き着きました。「部屋」というコンセプトには収まりきらなかったHATRAのフレームを補足するのが、この「リミナリティ」という概念だと思っています。”
(浅子佳英による長見へのインタビューより。「3Dでかたちにする、衣服と建築の可能性の中心」『LIXILビジネス情報』)
このリミナリティという概念は、もともとは人類学者のヴィクター・W・ターナーが「儀礼」について論じる際に用いたものである。だが、長見はそれを敷衍してこの世界のあらゆるもののあいだにある境界について思索と制作を行う。
長見がここで念頭に置いているのは、「部屋」から「旅」に出て、ふたたび「部屋」へと戻るさいの「移動」の効果である。かつて部屋にいた自分と、旅に出かけ、そして帰ってきた後に部屋にいる自分とは、一見したところ同じように見える。しかしながら、同じ場所にいたとしても、そのあいだに生じるさまざまな経験によって世界の見え方が変わることもあるというのは当然のことだろう。
あるいはまた、たとえば家から学校や職場に行くことを考えたときに、目的地に到着するという「目的」だけを考えれば、どのようなルートを通るのかは重要ではない(もちろん所要時間は考慮の材料になるが)。もし目的地にたどりつくことだけが考慮されるのであれば、歩いて行くか、自転車で行くか、車で行くか、電車で行くか、所要時間やコスト以外は等価なものと考えられる。だが、その過程はひとつひとつまったく違うものである。歩いているときに見える景色と車に乗っているときに見える景色はまったく違うし(歩くといままで気づかなかったものを発見するということはよくある)、それは数値に還元されることのない異なる経験となるはずである。*¹
これは哲学者の國分功一郎が指摘するような、目的や効率(のみ)を求める態度への批判とも通ずる。*² 近年はタイパ(タイムパフォーマンス)という概念が重視され、いかに効率よくものごとをこなすかが求められる。だが、上で述べたような「過渡」の重要性に着目するのであれば、出発点と目的地、原因と結果、もっと言えばなにがしかの二つの領域の「あいだ」にこそ、HATRAの作品を理解するための鍵があると考えられる。
*¹ 近年ネットミームとして流行しているリミナルスペースはこの「境界」を拾い上げて前景化させたものとも考えられる。『ザ・バックルームズ』や『8番出口』などに見られるような、延々と続き、どこにもたどりつくことのできない、不安を引き起こさせるような場所──誰もいないホテルの廊下や地下鉄の通路など──がリミナルスペースと呼ばれるが、これも境界状態の「どこにも属することのない」「不安をあおる」性質を言い表したものとも言えよう。
*² 國分功一郎『目的への抵抗』新潮社、2023年
選択肢の拡張
次に、HATRAのデザインプロセスを見ていこう。先に述べたとおり、近年のHATRAの特徴のひとつとしてデジタルなツールの活用がある。伝統的なファッションデザインのプロセスは、デザイン画を描いて、それをパターンに起こして、トワルを組んで、サンプルを作り、それをもとに量産するといったものであろう。けれども、HATRAはそこにふたつのツールを取り入れている。それはCLOとAIである。


HATRA 2025年春夏コレクション
これまでファッション業界でもパターンメイキングにおいてCADというデジタルツールが使われてきたが、CLOはファッションデザイン用の3DCGソフトウェアで、ディスプレイ上でシミュレーションができることが最大の利点とされる。従来はデザイナーやパタンナーの頭にあるものを明確に視覚化することは難しかったが、CLOによってそれが可能となった。
長見はCLOの特徴について次のように述べている。
“一番大きかったのは、「Command+Z」を獲得したことだと思います。一度布を裁断してしまうと後戻りはできないけれど、それが3D上では無制限にできてしまいます。これはとても大きな変化でした。例えば、白いシャツの襟だけを赤くしてみよう、といったエスキースが躊躇なくできるようになりました。従来は、“考えればわかる”イメージの確認のために縫製の時間や生地を割くなんて、とうていコスパが合わないと思っていました。しかし、画面上ではすぐに検証ができるし、やってみると意外な発見をすることがあるんです。時間やコストを奪われることを恐れて、潜んでいる可能性から目を背けて半年ごとのリリースサイクルに合わせていたわけですが、そんな必要がなくなった。アーカイブの型紙のように、自分の手癖がベースにあるのはもちろんだけど、失敗のハードルが大幅に下がったことによって、そこから離れた新しいクリエイションを実験できるようになった気がします。“
(「3Dでかたちにする、衣服と建築の可能性の中心」『LIXILビジネス情報』)
ここで注意しなければならないのは、CLOの活用において重要なのが「効率化」ではないことである。効率化を求めるのであれば、「境界」や「過渡」は不要なものとなるからだ。「失敗のハードルが大幅に下がったことによって、そこから離れた新しいクリエイションを実験できるようになった」と長見が述べるように、非効率なまでに選択肢を拡張していくこと、そこにこそCLOを用いたデザインの(HATRAにとっての)強みがあるのだと言える。
そのことは、「スペキュラティブファッションラボラトリー」を謳うSynfluxとのコラボレーションによるプロジェクト「AUBIK」(2020年)からも理解される。「AUBIK」、そしてそこから展開された「Synthetic Feather」(2020年)では、AIを用いた柄の生成が行われた。200万枚の画像をAIに学習させて柄を生成した「Synthetic Feather」の柄は、何とも言えない不可思議な雰囲気を持つ。目や羽のように見えるディテールにより、かろうじてそれが鳥であるということを認識することもできなくはないが、鳥だと言われなければ一目で認識することは難しいだろう。言い換えれば、AIによる柄の生成は、鳥という目的物の実現のための効率化をめざしたものではない。そうではなく、私たち人間の「想像力」だけでは実現できない可能性の産出が重要なのだ。

SynfluxとHATRAによる共同プロジェクト「AUBIK」
このデジタルなツールを使ったデザインプロセスによって生まれるのは、長見が「想像力のバグ」と呼ぶものであろう。*³ バグは本来作ろうと思って作られるものではないし、プログラムが正常に動作するためには不要なものである。しかし長見は、デジタル(AI)とフィジカル(人間)のあいだで情報が往来することによって生まれるバグに積極的な意味を見出す。それは、すべてをコントロールしようとせず制作に偶然性を取り込むような試み——二〇世紀において美術や音楽の分野でなされたような——のひとつだとも言える。
「AUBIK」についてもうひとつ重要なのは、新しい「線」の創出である。もともと「AUBIK」の核としてあったのは、おそらくSynfluxのアルゴリズミック・クチュール──アルゴリズムを用いて可能な限り廃棄の出ないパターンを探る技術──によって実現された、HATRAのシグネチャーとも言えるフーディーのパターンの再構築であろう。アルゴリズミック・クチュールという技術は、一般的にはゼロウェイストをめざした「効率化」のための技術とされる。実際、それはある側面においては正しい。しかしながら、HATRAがその技術を活用するときには、効率化のみならず──もっと言えば効率化よりも──、通常のパターンメイキングの想像力では生まれえないような「線」を模索するためのもののように思われる。











アルゴリズミック・クチュールにおいては、通常のパターンメイキングの知識、つまりは人間の想像力では生まれないような「線(=縫い目)」が現れる。布が余らないようにすると、どうしてもパターンが細分化されることになるからである。そこで生まれる線は、普通は「良い」あるいは「美しい」ものとはされない(もしそれが良いものとされるのであれば、普通の服のパターンもできるかぎり細切れにするだろう)。服を作る上で、線は──輪郭以外には──ないのが望ましいとされている。
しかし、振り返ってみれば、HATRAはこれまでもつねに衣服における線を更新する試みを行ってきたと言えるのではないだろうか。スウェット生地にワイヤーを入れた初期のフーディーやパンツ、近年、毎シーズンアップデートされているテーラードジャケットなどを見ると、歴史上、さまざまなファッションデザイナーが手掛けてきた服とは異なる線が見られる。そこにおいて長見は「いかにして服に新たな線を引くことができるのか?」と問いかけているようにも思われる。線のデザイナーという意味では、長見はクリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)やチャールズ・ジェームズ(Charles James)の系譜に連なると見ることができるだろう。
*³ 蘆田裕史+水野大二郎による長見へのインタビューより。『vanitas』No. 007、アダチプレス、2021年
誰のためのファッションデザイン?
こうして生まれるHATRAのプロダクトは、誤解をおそれずに言うならば、人間に「似合う」ものかどうかすらわからなくなる。リミナリティというコンセプトを掲げるHATRAは、「似合う」「似合わない」という概念——それも一種の境界状態と言えるだろう——さえも乗り越えようとしているように思われる。服が人間にとって似合うかどうかなんて些細な問題である、と言わんばかりのように。
長見はインタビューにおいてこのように語っている。
“ファッションはこれまで知性と感じられなかったものと対話をするための準備作業だと思っています。“
「これまで知性と感じられなかったもの」が何を指すのかは不明瞭だが、少なくとも人間以外のものを想定していることは確かだろう。長見が見据えているのはもはや人間のための衣服ではないのかもしれない。実際、HATRAがアーティストと行っているコラボレーションからもそんな風に思わされる。たとえば金沢21世紀美術館で開催された展覧会「DXP2(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット2)」のためにYuma Kishiと制作した「LOTUS ROOM」は、文章生成AIと人間とのコミュニケーションにより、ありえたかもしれないHATRAのコレクションを類推・生成するインスタレーションとされている。この先、HATRAは一体誰のための服を作っていくのだろうか。はたしてファッションは脱人間中心主義的になることができるのだろうか。近い将来、その答えが見られることを期待したい。
■参考文献+HATRAのさらなる理解のために
ヴィクター・W・ターナー『儀礼の過程』(冨倉光雄訳)、筑摩書房、2020年
レベッカ・ソルニット『ウォークス——歩くことの精神史』(東辻賢治郎訳)、左右社、2017年
星野太「ハトラ——「中性的なもの」の力学」『vanitas』No. 002、ファッショニスタ、2013年(現在はアダチプレスから)
星野太『崇高のリミナリティ』フィルムアート社、2022年
深井晃子(監修)、石関亮・蘆田裕史(編)『+ (プラス) Future beauty——日本ファッションの未来性』平凡社、2012年
1978年京都生まれ。京都大学薬学部卒業、同大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、2013年より京都精華大学ファッションコース講師、現在は同大学デザイン学部准教授。批評家/キュレーターとしても活動し、ファッションの批評誌「vanitas」編集委員のほか、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。主著は、「言葉と衣服」「クリティカル・ワード ファッションスタディーズ」。
ADVERTISING