藤巻幸夫(ふじまき ゆきお)という1人の男。アパレル業界では「カリスマ・バイヤー」として名を知られているが、今や名刺の裏には代表やプロデューサー、教授まで10社以上の肩書きが記され、幅広く活動している。そんな藤巻氏の原点はバーゲンの売り子。ゼロからスタートした伊勢丹と世界の最先端を知ったバーニーズ時代、福助やイトーヨーカ堂では経営面から改革に挑み、参院選出馬では国を変えようとした。常に現場から学び、人を巻き込み、失敗と成功を繰り返してきた「フジマキ流」の半生を、過去と現在そして夢を交えながら紐解く。
全ての原点は3坪のバーゲン売り場
学生時代はこれという夢もなく、おしゃれには興味があったけれどモードや婦人服を仕事にしようなんて思ってもいなかったという藤巻氏。生まれて初めて「伊勢丹新宿店」の店内に入った瞬間に一目惚れし、「ここに入ろう」と決意したのだという。「根性だけは誰にも負けず」という熱意が通じて念願の伊勢丹に就職。
しかし配属はわずか3坪のバーゲン売り場で、決して意に叶った世界ではなかった。売れない商品を1点でも多く捌くために声を張り上げ、バックヤードへ走り、5分ごとに売り場を変えるなど試行錯誤しながら必死で働く日々。気がつけばその店の名物店員となり、付いたニックネームは「伊勢丹の寅さん」。商売の基本を体で覚え、後の「カリスマ・バイヤー」の土台を築いていった。
ファッションの知識なんてこれっぽっちも知らなかった僕は、まさにゼロからのスタートでした。 女性社員も多そうだし、モテるようになるかもしれないな・・・なんて就職前の甘い考えは一瞬で崩れましたね(笑)。バーゲン売り場に並ぶのは、いわゆる売れ残りの商品。安ければ売れるという簡単な考えでは通じず、あらゆる手を尽くしました。
まず考えたのは「ものが売れる / 売れない」という理由。それはお客さんの関心を知ることなんですね。1つ目は「商品」。色・柄・素材・デザイン・機能・用途・サイズ・価格、様々な要素で出来ている。とにかく見て触って覚えました。2つ目に「見せ方」。バーゲン売り場で僕は、5分ごとに配置換えして売れ行きを検証したりもしましたね。3つ目に「PR」、つまり宣伝です。以前、「ズームイン朝!」という生放送のTV番組がありましたよね。司会者の背後がオープンの窓になっていて一般人が映り込むスタジオだったので、後ろでゲリラ的に「明日から伊勢丹でバーゲン!」という旗を降ったことがあるんです。案の定、上司からこっぴどく叱られましたけど、その時はいつもの10倍も売れたんですよ。PRの意味を初めて実感した時でした。
そして4つ目に「人」。バーゲン売り場も倉庫の係も、当時はやる気のないおばさんたちばっかりだったんですよ(笑)。そこで、たまにおせんべいとか差し入れたり、よく声を掛けるようにするとやる気を出してくれました。モチベーションが上がると、誰でもフットワークが軽くなるし雰囲気も変わります。チームとリーダーという人の働きを学びました。この4つを覚えたのが25〜6歳の頃。僕が毎日悪戦苦闘しながら現場で学んだ小売りの基礎でした。
世界の最先端バーニーズのバイヤーに抜擢

バーゲン売り場で3年間働いた藤巻氏が、次に任されたのがバイヤーの仕事。バーゲン売り場の「伊勢丹の寅さん」からバイヤーのアシスタントに昇格して切磋琢磨していた頃、伊勢丹は1989年にバーニーズ・ニューヨークと事業提携。子会社バーニーズ ジャパンが設立し、立ち上げメンバーとして藤巻氏が抜擢された。ファッション業界の花形とも言えるバイヤーデビューがこの上ない形で実現。幸せの絶頂かと思えたが、実際は苦労の連続だったのだという。
販売員をやっていくうちに、僕はだんだんとバイヤーに憧れを持つようになりました。バイヤーは、商品やブランドの価値をゼロから生み出す仕事。自分の感性を発揮して、人を喜ばせるというエンターテイナーでもありますよね。世界中を飛び回って物を買ったり作ったりするという仕事に、異常に興味が沸きました。
バイヤーアシスタントとしてがむしゃらに働いている時、思いがけず「バーニーズ ニューヨーク」のバイヤーとしてアメリカに出向が決まったんです。最高の夢が突然叶った。プロ中のプロと行動を共にして、世界の最先端ファッションに触れる貴重な経験でしたが、半人前だった僕にとっては最高に辛く苦しい3年間になりました。マーチャンダイジングの本質を徹底的に叩き込まれたのがこの頃です。それと共に、ファッションの面白さやデザイナーの背景にある美学、街によって違う文化を知る事が出来ました。バイヤーとしては結果が出せなかったけれど、この目で世界を見る事ができたことで、この頃から自分のやるべきことが見えはじめました。
革新的な売り場がヒットし「カリスマ・バイヤー」に
藤巻氏が帰国を命じられたのが1992年。半ば出戻りのような格好で再び伊勢丹で働くことに。海外経験を通じて日本の百貨店に足りないものに気付いた藤巻氏は一念発起し、2年後に新進デザイナーを集めた情報発信スペース「解放区」をスタート。成功を納めた後、自主編集売り場「Re-style(リ・スタイル)」、「BPQC(ベーペーキューシー)」と革新的な売り場を次々と開発。「ファッションの伊勢丹」の確立に貢献した藤巻氏は、いつしか「カリスマ・バイヤー」として名を馳せる。
バーニーズの仕事を終えて帰国したのは日本がちょうどバブル崩壊の時期で、伊勢丹も例に漏れず外国のブランドばかりを取り扱っていました。それを目の当たりにして思ったんです。例えばアメリカの百貨店には「Donna Karan(ダナ・キャラン)」や「Ralph Lauren(ラルフ ローレン)」といった有名・無名に限らずアメリカのブランドが置いてある。イギリスでも必ず面白いものが見つかった。では「日本の百貨店のどこに日本らしさがあるんだ」と。
「例えマイナーでも日本のブランドを扱うのが僕の仕事なのではないか」。そう思って、8人の若いデザイナーを集めて全く新しい売り場を作りました。しかも、本館1階という最高のロケーションに。それが「解放区」。予想以上に反響がありましたね。その手応えを感じて、「売り場を作る」ということの面白さにはまりました。
次に作ったのがセレクトショップスタイルの「Re-Style」です。若い部下とチームを組んで、世界中に買い付けに行ったりしながら売り場を作っていきました。「藤巻集団」なんて呼ばれて会社でも浮いていましたけれど、その時の弟子は今も活躍しているようで嬉しいですね。会社のルールを壊して「好きな事をやれ」なんて言っていました。売り場の成績は圧倒的に良かったんで、いくら遊ぼうが上から文句を言われる事もなかった。「楽しく生きる」がモットーで、おかげで人脈が広がりました(笑)。

だんだん刺激がなくなってきて、伊勢丹を辞めようと考えたのが30代後半。当時役員だった武藤信一さん(2010年に永眠)に「辞める前に何かやれ」と言われたんです。その頃、地下2階のボイラー室を売り場にする計画があって、ひらめいたのが「街」のようなフロアでした。
僕はイギリスのノッティングヒルが好きで、「この小さな街のようにカラフルでかわいい店を並べたら面白そうじゃないですか」と提案したことがきっかけで誕生したのが「BPQC」なんです。音楽だったら誰、 お花だったらここ、という風にフロアを組み立てていきました。 普段おもしろい事ばかり考えて、そして夜遊びで広がった人脈がここで活かされたんですね。これが当たったのを見届けて、伊勢丹を辞めました。
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