第2話からつづく——
1980年、27歳でインポートブランド「セリーヌ(CELINE)」の販売に転職した秋山恵倭子。店長による強烈なスパルタ教育に、秋山は何度も「辞めたい」と思うような辛い日々を過ごす。しかし、彼女から徹底的な顧客管理・計数管理をはじめとした自身と店を磨く術を学ぶうち、いつしか店舗は売上全国最下位から一番店に上り詰め、自身も売上全国トップの販売員に。一方で、阪神・淡路大震災やLVMHによるブランド買収など、秋山を取り巻く環境が大きく動いていった。——BRUSH代表取締役会長を務め、販売の極意を熟知した店舗運営コンサルタントの秋山が半生を振り返る、連載「ふくびと」販売のエキスパート 秋山恵倭子・第3話。
「ブランドの人間として美しくあれ」
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私がセリーヌに入った頃のインポートラグジュアリーブランドでは、販売スタッフは「20代では若すぎる」と言われることも多かった時代。それなりの地位のある方や富裕層が中心顧客だったため、接客には洗練された身のこなしや、繊細な気遣いが求められました。そのため、最初は接客などはさせてもらえず、先輩のフォローや後片付け、雑用が主な役割。とにかく厳しかった店長の天王寺さんからまず徹底的に叩き込まれたのは、「ブランドの人間として美しくあれ」ということでした。だから、「メイクが変」「髪型が変」「歩き方が美しくない」と、話し方や立ち居振る舞い、メイクの仕方まで本当に厳しく指導されましたし、レジや電話、床を含め、お客様のために店を徹底的に掃除して綺麗に保つことを教えられました。
入ったばかりの頃は日々ものすごく叱られていたので、正直なところ毎日のように「辞めたい」と頭に浮かんでいました。でも、「明日も同じ気持ちだったら辞めよう」と思って一晩経ち冷静になると、自分が叱られているのは仕事ができていないからだと気づく。もはや「辞めます」と言うことさえ恐ろしい空気でしたし、「いつかもっと仕事ができるようになって、『お願いだから残ってちょうだい』と言われるようになるまで頑張ってやる!」と、負けん気を力に変えて踏ん張っていました。
結果的に、「数字がないのは顔がないのと一緒」という数字に対する執着や、「セリーヌ以外の服は着ない」「包装紙一枚すら無駄にしない」というブランドロイヤリティなど、天王寺さんからは多くのことを学ばせてもらいました。私がただ売ることが得意なだけの販売員に留まらず、今の自分があるのは、間違いなく天王寺さんの教えがあったからだと思っています。
全国売上最下位から、世界の一番店に
私が働いていた神戸トアロード店は、途中で大丸神戸に店舗が移転したのですが、当初は全国最下位の売上でした。でも、天王寺さんの徹底的な顧客管理・計数管理の手腕と、バブル景気、そして日本でのインポートブランドブームの後押しもあり、1980年代中頃には顧客層が徐々に拡大。多くの顧客様を持つようになって売上を大きく伸ばし、気づけば日本一番店になっていました。その後も日本一の売上を維持し続け、1990年代初頭には世界で一番の売上を叩き出したのです。
元々販売の仕事が好きだった私は、その頃には自発的に「どうしたらお客様に喜んでいただけるか」「お客様のために何をしたらいいか」ということを常に考えて行動していました。当時のセリーヌは、ブランド創設者のセリーヌ・ヴィピアナ(Celine Vipiana)がデザインを手掛けていた、いわゆる「B.C.B.G.*(ボンシック、ボンジャンル)」のブランドだった頃。今でこそ日本人の体型に合うサイジングもあるものの、当時は主に西洋人の体型に合わせるように作られた服を直輸入していたので、小柄で身体も薄い日本人のお客様がそのまま着ても、どうしても綺麗に見えませんでした。
*B.C.B.G.:フランスの上流階級のような、シックで趣味の良いファッションやライフスタイルを指す言葉。
それで服の勉強が必要だと感じ、仕事の合間を縫って近所の洋裁教室に自腹で通ったり、知り合いのアトリエに服を持って行って聞いたりして、お客様に服を綺麗に着ていただくためにはどこをどう直したらいいのか、ということを一生懸命学びました。そのおかげで、修理とピン打ちのテクニックや知識が身につき、自分の武器にもなりました。洋裁教室の先生が、「自分のお金を使ってそんなことをしようというのは大したもんや、あんた偉いもんになるよ」と言って月謝を安くしてくれたのは嬉しかったですね。
公私ともに大きな転機となった阪神・淡路大震災
1990年代初頭には売上世界一番店にまで上り詰めたセリーヌの大丸神戸店でしたが、1995年の阪神・淡路大震災で店舗はほぼ全壊。当面営業ができない状況だったため、心斎橋大丸にわずか10坪ほどの店舗ができました。その頃、天王寺さんは既にスーパーバイザーになっていて、私が店長を務めていました。15年一緒にやってきた天王寺さんに初めて謝られるくらい、小さな売場での再スタート。でも、3年後に予定されていた館の改装計画に向けて着実に実績を上げ、改装時には当初の4倍の広さの、フロアで一番良い立地の売場に移ることができました。
震災では自宅も全壊。亡くなった人を一度にあんなにたくさん見たのも生まれて初めてでした。いろいろな人から「大変だったね」と言われましたが、「生きているんだから、大変だなんてことはない」と思ったことを今でも覚えています。離婚を経験したのもこの時期。決して「良かった」とは言えないですが、震災は自分にとって本当に公私ともに大きな転機となる出来事でしたね。
「怖くて嫌い」から“あうんの呼吸”に
当初は怖くて嫌いだったものの、20年近く仕事をともにした1990年代終盤には、私と天王寺さんは“あうんの呼吸”になっていました。私には彼女が思っていることやしてほしいことを察することができたし、彼女も私がいなければ仕事ができないというくらいの信頼関係を築いていたのです。
その頃には、ジェーシーシーの取締役兼スーパーバイザーとして日本のセリーヌ全体を見ていた天王寺さんの指示で、私が全国の売上の悪い店舗にテコ入れに行くこともありました。同じ商品、同じオペレーションで運営しているからこそ、売上一番店の店長の私が行けば、何ができていないのかがすぐにわかるしすぐに直してあげられる。クリンネス(店舗を整理・整頓し清潔な状態に保つこと)やストック整理の仕方、ウィンドウディスプレイの作り方、接客に効率の良い備品の配置の仕方などを教えて直していくだけで、みるみる売上が上がっていくんです。それが一番面白かったし、その時の経験が今の仕事のベースになっています。
そんな中、1996年にLVMHがセリーヌを買収し、翌1997年には日本のセリーヌの運営もジェーシーシーからセリーヌ・ジャパンに変わりました。すると本国主導で組織改変が始まり、本国から上層部がやってきたり、予想外の人事が行われたりと、どこか落ち着かない空気を感じていました。そんなタイミングで声を掛けられたのが、「ジョルジオ アルマーニ(GIORGIO ARMANI)」。心斎橋の路面店オープンに向けて、天王寺さんを店長、私をドンナ(イタリア語で「女性用」「ウィメンズ」の意)のマネージャーとして採用したいという依頼でした。——第4話につづく
第4話「自分にしかできないことは何か?」は、11月21日正午に公開します。
文:佐々木エリカ
企画・制作:FASHIONSNAP
【連載ふくびと】販売のエキスパート 秋山恵倭子 全7話
第1話―「私にはこれしかない」
第2話―「よっしゃ、ここから人生始まったわ」
第3話―強烈スパルタ教育のセリーヌ時代
第4話―自分にしかできないことは何か?
第5話―50代で決断、ジュエリーへの転身
第6話―40年来の顧客、形見分けのエルメス
第7話―販売員の地位と価値向上を目指して
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