「西の西陣、東の桐生」と称され、織物の町として繁栄してきた群馬県桐生市。品質の高い織物と刺繍を製造する産地として知られ、業界でも一目置かされている街に刺繍工房「笠盛」はある。明治10年から現在に至るまでの145年にわたって織物産業を牽引してきた笠盛は、黒河内真衣子が手掛ける「マメ クロゴウチ(Mame Kurogouchi)」や中島輝道が手掛ける「テルマ(TELMA)」のコレクションアイテムを手掛け、デザイナーたちを陰で支える一方で、2010年に自社企画としてアクセサリーブランド「トリプル・オゥ(000)」のほか、コロナ禍ではマスクブランド「フェイスドレス(FACEDRESS)を立ち上げた。同社は元々、機屋として栄えたが度重なる困難を乗り越える術として刺繍業に舵を切った歴史を持つ。
「当時は刺繍の仕事なんて無かったみたいです。当然ですよね、元々機屋なんだから(笑)。僕も大失敗を何度もしてきているし、会社が潰れかけたことだって何度もあった」と笠盛グループの現会長で四代目の笠原康利氏は冗談交じりに話す。笠原会長の遊び心に溢れた軽快な語り口は笠原家が先祖代々ユーモアに富み、人々に愛され、柔軟に物事を捉えることで様々な逆境を乗り越えてきたことを感じさせ、だからこそ「社長の器でしか会社は大きくなれない」という一言が胸を打つ。伝統や老舗が持つ特有の守りの姿勢ではなく「未来に種を蒔くようにチャレンジし続けるべきだ」と力強く話す笠原会長に、笠盛の今昔とグループを統括するものとしての哲学、そして繊維産業を牽引する老舗としての考えを聞いた。
目次
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「会社はいつでも誰かが社長になれるようにする勉強の場」
ーご出身は?
生まれも育ちも群馬県桐生市です。今、笠盛が建っている場所は元々本家の土地でした。明治10年に初代が本家長女の婿としてやってきて、一区画で機屋をはじめたのが始まりです。
ー桐生は「西の西陣、東の桐生」と称され、織物産地として知られていますが、そもそもなぜ織物の町として繁栄したのでしょうか?
桐生における織物の歴史は1300年あると言われています。1300年前、朝廷に絹を献上したという記録が残っているそうです。群馬県の特徴として元々養蚕が栄えていたこと、また水が豊富であることから水車の動力源があったというのが大きい要因だったんじゃないでしょうか。
ー現在の従業員数は?
パートさんを含めて32人。従業員の年齢層も幅広くて一番上だと74歳、一番下だと20歳くらいの人もいます。笠盛では月に一度勉強会と称した懇親会があって、年齢関係なくざっくばらんに談笑するんです。やっぱり話すことが重要だと私は考えていて、「俺の背中を見て育て」と言う人もいますがそれは絶対に嘘だと個人的に思っています(笑)。対話があるからこそお互いの理解が深まると思いますし、理解が深まれば年の差も関係なくなるものです。若い人でも優秀な人は優秀ですし、歳や経験を重ねていてもできないことはできない。若い人だっていずれは歳を重ねるし「お互い様だよね」と言い合える会社であるうちは、良好な環境なのかなと思っています。
ー笠盛には145年の歴史があります。笠原会長は何代目にあたりますか?
私が四代目で、今の社長が五代目になります。創業者は私のひいおじいちゃんで、そこから祖父、父、私と継いできました。親父は「本家から数えて三代目社長が会社を倒産させる」という言説が嫌いだったみたいで「俺は二代目だ」ってよく言ってましたね、本当は三代目なのに(笑)。
ー2019年に代表取締役社長に就任された櫻井理さんから同族経営では無くなりました。
その時に一番優秀な人間がやればいいだけのことで、必ずしも創業家がやる必要はないと思うんですよ。当然ですが事業体というのは1人では成り立ちません。ここからは私の持論ですが会社というものがなぜ世の中に存在しているかと言うと、幸せになる為だと私は考えています。全てのステークホルダーが幸せになるように循環しないのであればそれは会社とは言えないでしょう。それと、私は誰でも社長になれるような会社にしたかったんですよね。別に、笠盛じゃない会社を作ってもいいんです。とにかくみんなが自己実現をできる組織にしたいと常々思っています。会社はいつでも誰かが社長になれるようにする勉強の場だと思ってもらえれば。要するに、社長の器でしか会社は大きくなれないんですよね。大きくするためにはそれしかない。
困難続きの145年間、渦中に飛び込むことで乗り越えてきた危機
ー笠原さんが社長に就任したのは?
36歳の時でした。それより前に入社はしていて。というのも親父から大学入学と同時に「お前は機屋を継ぐんだから大学を卒業したら京都の機屋に弟子入りしてこい。話はちゃんと付けてあるから」と言われたと思ったら卒業後「やっぱり、普通にどこかの会社で社会人経験を積んでこい」と言われ(笑)。コンピューター系の会社でソフトウェアを作る工場に務めていて、「面白い商売だな」と思って楽しんでいたんですが、親父からの「戻ってこい」の一言で帰省しそのまま笠盛に入社。それが昭和48年、僕が25歳の時でした。
ー笠盛に入社してからはどのような仕事をしていたんですか?
最初は刺繍の「し」の字も知らなかったので、刺繍そのものを練習しながら、ひたすら営業。私が戻ってきた頃が特に受注業が少なくなってきた時期でもあって「これはしょうがない、やるしかない」ということで色々なところに飛び込みで営業をかけていましたね。私は刺繍の知識がほとんどない状態で入社をしたんですが、一生懸命やっていると営業先の偉い人たちが教えてくれるんです。様々な人に可愛がられたというか、飛び込み営業をきっかけに仕事が来たり、紹介されたりしながらだんだんと仕事の数が増えていきました。
ー創業から145年。その長い歴史の間には数々の困難もあったかと思います。
もう困難ばっかりです(笑)。多くの企業が海外に生産を移し始めたことで、日本国内での仕事が少なくなり、僕たちもインドネシアに工場を構えることにしたのが2001年。当時は「日本のメーカー」というだけで信頼度もありますから受注数は上々でした。でもね、お金があんまりもらえなかった(笑)。収益を出すことがとても大変だったんですけど、そうこうしていたら今度は中国との価格競争にインドネシアが負けるんです。それで撤退を決めました。海外で稼ぐ柱を失った私は3つの方針を決めました。一つは東京で笠盛だけの個展をやること。もう一つは東京に事務所を構えること。もう一つは2009年までに海外に出展すること。この3つの方針を打ち出したのが2005年のことでした。
ーインドネシア事業の撤退や業績不振など、その都度でどのように困難を乗り越えていったんでしょうか?
危機や困難から逃げるのではなく、渦中に飛び込むという選択をし続けましたね。例えば、弊社のアクサセリーブランド「トリプル・オゥ」でマネージャーをやっている片倉くんが2005年に入社しましたが、先に話したとおり2005年というのはとても人を雇えるような状態じゃなかった。でも「海外の展示会に出そう!片倉くんはイギリスでの留学経験がある!一緒にやろう!」と(笑)。結果だけを見れば、彼がいたからこそ2007年にはヨーロッパの展示会「モーダモン(modamont)」でVIPプロダクトに選定され、その経験があったかこそ現在のトリプル・オゥがあると思っています。あの時の思い切りや勢いは間違いではなかったんですよね。
社長になってからすぐに気がついたことが一つあって。それは、大きな危機は決して1人では乗り越えられないということ。私が人の倍働いても二人分、3倍働いたとしても三人分の仕事しかできない。一人の力って総量が決まっていますから、一人でいくらやっても大した量にはならないんです。でも、一人ひとりの頑張りが合わさればいずれ大きな力になります。私は、商売は掛け算だと思っていて、業績というのはファンになってくれる取引先や商売させてもらっている地域の人など、携わっている人の分だけ掛け算として増えていくものだな、と。その熱量はお客様にも派生して「喜び」という形でもっと大きくなる。やっぱり自分が燃えるような気持ちでやっていかないと周りがついてこないんです。だから業績が悪くなったとしても、一人ひとりが自分の仕事に誇りを持ってやる気を出せば必ず良い方向に向かって行く。今までもそうだったし、きっとこれからもそうでしょう。逆に言えば、その熱量が無くなったときが辞め時かなと思っています。
ー経営理念「刺繍で世界中を愛と感動で満ち溢れさせる〜お客様とワクワクドキドキ感を共有する〜」にも繋がるお話ですね。
この経営理念で重要なのは「お客様と」という部分です。自分たちだけででより良くなることなんて絶対ありえないんです。やっぱり、ワクワクドキドキしないとね。それが仕事の醍醐味だと思いますから。ドキドキしすぎてたまに「大丈夫かな」という意味になる時もありますけどね(笑)。僕が笠盛に入社してから一番大変だったのは、東日本大震災直後。いつ潰れてもおかしくなかったけど、それだってなんとかなった。少しおかしな例え話ですが、下を向いて歩いていたら100円玉くらいは落ちているかもしれないですけど、やっぱり幸せは落ちていないですよね。
機織から刺繍、そしてアクセサリーブランド、マスクブランド立ち上げへ
ー笠盛は機織から刺繍、そしてアクセサリーブランドへの変遷を辿っています。
戦後まもない頃は「ガチャマン景気」と呼ばれるくらい機屋は景気が良かったそうです。織り機というのは、縦糸に横糸を押し入れていく時にガチャガチャと音が鳴るんですが、それを一度"ガチャ"とするだけで、万儲かると言われていた。それで「ガチャマン景気」。会社としても戦後は調子が良くて、安い合成繊維を取り入れた着物帯「笠盛献上」を生産し大当たりしたそうです。一時期は桐生の織物生産の3分の1を占めていたんですが、そんな状況も長くは続かなくて、昭和10年代後半には下火に。そんな中、当時社長だった私の親父が「何かをやらなくては」と始めたのが刺繍でした。実は刺繍以外にも、鉄鋼や横網もやっていたんですが、その中で残ったのが刺繍だった。当時は、桐生に刺繍機自体もなかったそうで、親父は西ドイツからミシンを仕入れたと言っていました。
ーどうして刺繍だけ残ったんでしょうか?
親父に聞いたことがあるんですが、仕入れたものを加工していくのが織物なのに対して、刺繍は糸さえあれば極論成り立つ、と。つまりそこまで仕入れが大変ではないんですよ。一つ一つの売上や単価は少額だけど、リスクも少ない分長く続けることができそうだ、という安心があったんでしょうね。
ー笠盛では2010年にデビューしたアクセサリーブランド「トリプル・オゥ」のほか、2021年に立ち上がったマスクブランド「フェイスドレス」を自社ブランドとして運営されています。
フェイスドレスは、コロナ禍が始まってまもなくの頃に経産省から「桐生の人たちでマスクを作ってくれませんか?」という相談が商工会議所に届いたことがきっかけに立ち上がりました。私は「補助金も出るようだし、産地でマスクを作ろう!」と即決。それで「誰かこの新しい事業に興味がある人いますか?」と社内に声を掛けたら、当時入社2ヶ月の牛込くんというスタッフが手を上げてくれたので、任せることにしました。私が牛込くんに「どんなマスクを作りたい?」と問うたら彼は「とにかく高いマスクを作りたい」と(笑)。それからは「やっちゃおう、言っちゃおう、作っちゃおう」の三拍子でものすごいスピード感で形になっていきました。結果的に「グッドデザインぐんま」大賞にも選ばれましたし、成功を収めたと言って良いのではないでしょうか。
新規事業の重要なポジションに若手を起用するわけ
ーフェイスドレスやトリプル・オゥなど、新規事業の重要なポジションに入社まもない社員を起用するのは何故なのでしょか?
失敗をある程度許す文化が会社に根付いているからでしょうか。笠原家には家訓がいくつかあって、その中の一つが「同じ仕事が続くと思うな」。私の親父は、あれだけ軌道に乗っていた織物産業が下火になっていく状況をリアルタイムで見ていたこともあり「自分たちで状況を変えていかないと会社というのは絶対に前に進まない」ということをよく言っていました。私も、会社名は同じでも中身は時流に合わせて変わっていかないと無くなってしまうものだと思っています。だったら、なんでもやってみよう、と。失敗をある程度許す文化がないと、新しいことに飛び込もうという勇気も出ないですよね。これは笠盛の強みだと考えています。
ー笠原会長の中で「失敗」の定義とは?
「長期的に見るチャレンジ」なのかなと思います。何かに挑戦してみても、結果として目に見えてくるのは早くても1年後。あるいはもっと膨大な時間がかかることだってあります。それまでは失敗か成功かもわからないんですよね。ただ、新しいものにずっと挑み続ける中でしか失敗も成功もない。ものづくりとはそういうことだと思っています。
145年の歴史がある笠盛はありがたいことに「老舗」と言っていただくこともありますが、逆に言うと変わり続けていたから老舗として残れたのかな、と思っています。言ってしまえば、今のままでの笠盛では200年後には無くなっているかもしれない。次の200年に繋げるために何を作ろうか、どうやって時流に乗ろうか、と見定めることは難しいですが、極論を言ってしまえば、別に繊維だけにこだわる必要もないんですよね。様々なことに挑戦して、新しい笠盛を自分たちで作っていけたら良いです。
現状維持を目標にしない経営者としての哲学
ー失敗を恐れないチャレンジ精神は代々引き継がれてきたものなんですか?
そうですね。いかんせん親父は3代続けた機屋業以外のことをやってのけたわけですし。当時は刺繍の仕事なんて無かったみたいです。当然ですよね、元々機屋なんだから。でも今、笠盛のことを刺繍工房として知ってくれている人のほうが多い。どうですか「チャレンジした結果は長い目で見ないとダメ」という話に説得力があるでしょう?(笑)。
ーはい、とてもあります(笑)。現在の繊維産業について笠原会長の意見を教えて下さい。一般的に国内アパレル市場は縮小傾向にあり、繊維産業もその限りです。
先程の話にも繋がりますが、今までと同じものを作り続けていたらいずれ繊維産業自体がなくなってしまうかもしれないですね。ただ、国内のアパレル産業は小さくなっていますが海外は好調であることを考えると悲観的になるのにはまだ早い気がするし、国内だけで売ろうと思わなければ良いのかな、と。というのも今の桐生はあくまで「素材提供基地」なんですよね。つまり、刺繍や織り、染めなど様々な技術を持っている企業の集合体が産地であり、桐生市という街の特徴であり、それ故に細かい分業を積み重ねて1つの製品の完成を目指さなければなりません。刺繍だけ、織りだけ、染めだけだと企業として成立しにくいし、成立させるためには自分たちの技術を自分たちで値付けし、販売することが重要になってきます。そんな中で産地を維持するための課題として今一番にあるのは、守りに入りやすい環境であることなのではないでしょうか。現状維持を目標にしてしまうと、気がついたときには時流に乗り遅れてしまうと思うんです。茹でガエル理論じゃないですけど、「待っていればなにか良いことがあるかな」とじっとしている間に取り返しがつかなくなってしまいますからね。浸かっている水が熱くなったと感じた瞬間に新天地に向かって飛び出していかないと。そういう気持ちを持たないと会社は続いていかないですよね。
ー最後に次の100年の展望を教えて下さい。
ずっと言っているのは「北極星になる」ということです。ハンカチ効果じゃないですけど、一点がつり上がっていけば、周りも自ずと右肩上がりになる。その「一点」になるような会社になろう、と。みんなから目標としてもらえるような活躍をすれば、桐生だけに限らず国内で奮闘する産地にもその熱量や雰囲気は伝わって、繊維産業そのものが盛り上がるのかなと思っています。
(聞き手:古堅明日香)
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