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年間150〜200社の繊維工場を巡る糸編の代表、宮浦晋哉は国内デザイナーの多くが助けを求める「ファッションキュレーター」だ。一見聞き慣れないファッションキュレーターという仕事は、宮浦が10年前に発案し、10年間掛けて職業として作り上げてきた。素材や技術とデザインを結びつけ、デザイナーを産地へとアテンドする宮浦は業界内外から厚い信頼を得ており、近年では経済産業省などの行政と共に国内繊維産地の活路を模索している。宮浦は過去10年間の繊維業界をどう振り返り、また先の10年をどのように見据えているのか。老朽化による移転前最後に、築100年の古民家を改装した糸編アトリエ兼事務所で話を聞いた。
ー宮浦さんは「ファッションキュレーター」というあまり聞き馴染みのない肩書で活動されています。簡単に仕事内容を教えて下さい。
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「この産地にこんな技術があるよ」というのをデザイナーに紹介したり、新商品を作りたいブランドのお手伝いや、一方で産地側からの情報発信もあるのでブランドと産地を繋ぐような活動をしています。
ー具体的に最近だとどのようなお仕事をされたんですか?
デザイナーと工場の協業的な取り組みだと、日本三大綿織物産地の一つとして知られている静岡県の遠州産地の素材開発やディレクション業務に携わっていて、毎年デザイナーとコラボして新しい素材を作っています。今年は「ミーンズワイル(meanswhile)」「ポッテンバーン トーキー(POTTENBURN TOHKII)」「ペティ(PETTY)」の3ブランドと新しい素材を開発しました。遠州産地ならではの素材メーカーと、デザイナーズブランドが融合する両者のこだわりがぶつかって新しいものが生まれます。
ー仕事の依頼は、デザイナーから宮浦さんにすることが多いんでしょうか?
そうですね。「作りたいものはあるんだけど、どこに頼んでいいかわからないんです」というデザイナーからのSOSや相談が一番多いかも知れません。その質問に対して「それならこういう技術があるんですよ」という提案から始まるクリエイションの機会を提供しています。
ーそもそもどうして繊維産業の道を選んだんでしょうか?
元々はデザイナーになりたかったんですよ。立ち上がったばかりの「ここのがっこう」にも通っていたんですけど、周りにいたのは「食事睡眠よりもクリエイション」という人たちで。ガリガリに痩せてもコレクションを作る、みたいな熱量の高い人が多かったんです。正直僕はそこまで没頭できなかったし、どちらかというと広い視野を持ち、一歩引いて物事を考えるタイプだったので「じゃあ、彼らをサポートする側に回ろう」と20歳の頃に決めました。
ものづくり側からのサポートを選んだのは、留学先イギリスでの経験からです。留学先に滞在している先輩や先生たちが口を揃えて「日本産の素材はすごい」と言っていて。僕は、日本の糸やテキスタイルが海外に大量に輸出されていることを知らずに渡英していたので、ある意味ショックを受けたんですよね。そこから繊維産業に興味を持ちました。
ーそんな国外から評価される日本の繊維産業ですが、跡継ぎがいないことや、コロナもあり経営が苦しい状況が続いています。
そうですね。職人さんたちの高齢化も進んでいて、働き手も売り上げももっと必要で、産地自体の運営が難しくなってきているのが現状です。現在進行形で廃業や倒産に追いやられている工場もあります。技術は一度なくなれば簡単には戻れない。こういった課題に対して、僕らが動いただけでは即効的な歯止めにはならないですけど、僕らがやるべきことを事業として活動してきました。
ー宮浦さんから見る、繊維産業の課題点はどこにあると考えていますか?
まず大きいのは、昔ながらの賃金で稼働し続けていること。実際に働いている方たちに話を聞いても「年金があるからやれている」という人が多いことに驚きました。彼らに支払われる賃金は上がるべきで、それは業界や国を巻き込んで考えなくてはいけないことだと思っています。やっぱり10年20年の単位で見ると、産地内での仕事が成り立たなくなるなという危機感があります。
ー「産地内での仕事が成り立たなくなる」とは?
そもそも僕の中での「産地」の定義は、企業の集合体のことを指しています。その地域が強みとする素材を作る企業が集まり、技術を磨いてきた。歴史を紐解いていっても、そうして産地は形成されてきました。例えば、綿織物の産地といっても染色屋さん、機屋さんはもちろん、更に細分化していくと針に糸を通す職人さん、完成した生地を加工する会社など、協力工場も含めたら様々な人達が携わっています。ただそうであるが故に生じる「地域産業は細かい分業で成り立っているけど、準備工程の外注費が低い」というのが問題だと思っています。どうしても「産地」と聞くと、わかりやすい織物やニットの工場を想像すると思いますが、産地を成り立たせている企業は1つではないんですよね。だからこそ「色んな人がいて産地は成り立っているんですよ」ということを可視化できたらいいなとも思っています。
ー円安やコロナ禍でのロックダウン、燃料費高騰による原材料費の値上がりも産地の維持が難しくなっている要因にあるんでしょうか?
原料の高騰もあり価格改定も相次いでいますよね。でも、ロックダウンの影響で海外で縫うはずだったアイテムを国内生産に切り替えたりとネガティブなことばかりではなくて。日本で流通する衣料品の97%ほどが数量ベースで海外生産(数量ベース)と言われていますが、もう一度、日本企業は日本で作るということを見直すきっかけになるといいなと思います。
ー国内アパレル市場は10兆円を切るなど繊維産業と同じく縮小していますが、一方「ユニクロ(UNIQLO)」や「ワークマン(WORKMAN)」などの大手は好調です。そうした好調な企業と繊維産地を繋ぐことで生まれる活路などはないのでしょうか?
大企業と産地が繋がることはリスクも大きいと思っています。大企業との取引を続けてしまうと産地が「大企業依存」になると言いますか、企業が撤退した後の運営持続が難しくなることがあります。これだけ先の読めない時代ですから、僕はそういう即効的な利益循環よりも地道に産地が発信したい技術を活かしていく方法や、次世代デザイナーともつながって新しいビジネスを育てた方が継続的な利益循環になるんじゃないかと考えています。
ー日本生産や、国内の繊維産地にこだわりのあるデザイナーブランドも増えてきました。
産地に行きたいデザイナーは年々確実に増えています。若手デザイナーたちから自発的に「自分たちで産地を回って納得いくものを買う」という流れが生まれたことはとても素敵だと思いますし、産地にとってもプラスな事だと思います。
ーデザイナーの中には、どうやったら職人たちと深いコミュニケーションが取れるのかに悩んでいる人もいるのではないでしょうか?
そうですね。よりよいものづくりのためには職人との対話が必要不可欠なんですが、職人もはじめての相手には時にはリスクヘッジを考えて「これは作れないよ」と言ったりと、変数が伴うのがものづくりの現場のジャッジだったりします。駆け出しのデザイナーたちは「これは作れないよ」という言葉で「断られた」と思ってしまって、何故作れないかもわからないまま妥協したという話を聞いたりもします。でも、産地でのものづくりの醍醐味はそこにあると思っていて、職人とデザイナーのキャッチボールでこそ新しいものが生まれる。それが日本でものづくりをするということだと思うし、オリジナルを作るということだと思っています。
デザイナーと産地の間にOEMが入る例もありますが、OEMに手伝ってもらうことは「翻訳をしてもらう」ということだと思っています。OEMは、工場とマンツーマンで話すことに不安があったり、対等なコミュニケーションを取れる自信がない人にとってはありがたい存在で取引が円滑になる場合もあるでしょう。でも僕個人としては、デザイナー自身にも生産現場との"共通言語"を学んで欲しいと思っています。少しおかしな例え話ですが、海外の旅行先で外国人と辿々しくも直接会話ができたら嬉しいし、楽しいじゃないですか。それと一緒で、共通言語を学び、対等の立場で話せるようになった時に生まれる広がりに挑戦して欲しい。そのために僕は「デザイナーをサポートしたい」という気持ちで「産地の学校」というものを立ち上げました。
ー「産地の学校」ではどのようなことを学べるのでしょうか?
"アカデミックじゃなくてストリート"をテーマに、抽象的に言うと「工場との共通言語を学ぶ場」、具体的に言うと、原料からテキスタイルになるまでの専門知識を学ぶことができます。例えば「天然繊維と化学繊維、ポリエステルとナイロンってどう違うのか」「こういう生地を作りたい時の方法論」などを各講師に教えてもらっています。ただデザイナーの受講生は全体の10%くらい。産地の学校を経由せずに、直接依頼が増えてきてしまったのが現実でした。本当は、産地の学校がデザイナーの受け皿になりたかったのだけど、少し狙いとずれが生じてしまっているので新たにデザイナー向けの新プログラムを作ろうと考えています。
ーデザイナーのどのような悩みを解決するプログラムになるんでしょうか?
デザイナーが思い描く作りたいものを作るための方法や知識をプログラムにしていきます。1講義1テーマで、生地、副資材、パターン、サンプル、量産、検品、納品するまでの流れを細かく学んでいきます。デザイナーさんがつまずきやすいところを逆算して潰していくようなプログラムを作っていて、1年以上かけて構成してきました。作りたいものの作り方がわからない、どこに頼んでいいかわからないという悩みは、知識である程度減らすことができるんですよね。
ー宮浦さんは個人事業主として活動してきましたが、2017年に糸編を設立し法人化。
個人から法人になっても、キュレーションという軸は変わりません。名指しでお仕事の依頼をいただく割合が今も多いですが、会社宛に届くご依頼も年々増えてきました。業界の中でも「産地のことや素材のことで困っていて外部に力を借りたい」と悩んだ時に糸編を選んでくれる企業が増えてきたように感じていてありがたいです。
ー「糸編」という社名の由来は?
「糸偏産業というフィールドでキュレーション(編集する)」。略して糸編です。「糸偏」という言葉は元々あって、繊維業界のことを「糸偏業界」、製品に関わる業界を「アパレル業界」と呼ぶのが一般的だと思います。ただ僕は繊維1本から最終製品まで、糸に携わる業界全体を「糸偏業界」=僕の活動領域だと考えています。つまり、一着の服に携わるすべての人がキュレーションの対象だ、と。
ーでは「編集(キュレーション)」が意図するところは?
「今あるものの見方を変えたり、打ち出し方を変えたり、関わる人を変えたり組み替えたりすることでよりよくなれますよ」という提案をすることですね。簡単に言えば、課題解決や魅力拡大の手段と思っています。
ー築100年の古民家を改装して作られたアトリエ兼事務所が老朽化で取り壊し、移転されますよね。
今内見をしている最中なんですが、次の拠点は表参道・明治神宮あたりを予定しています。産地の学校の授業もそこで開いて、テキスタイルの常設展を同じ敷地内にオープンしたいなと考えています。
ーテキスタイルの常設展というのは?
1年半前から「テキスタイルジャパン(TEXTILE JAPAN)」というテキスタイルの展示会を開催していて、そこでは僕が良いなと思った生地を、産地や種類も分けずに展示しています。もう一つ大きな特徴として、約1ヶ月間という長い会期で組んでいて。会期が長ければ、メンズ・ウィメンズの垣根なく多くのデザイナーが訪れることができるんですよね。それで、この移転の機会にテキスタイルジャパンを常設展示化して、"会期"という枠すら外すことができれば、より多くの人に来場してもらえるんじゃないかと考えました。
そして最終的には、日本のテキスタイルの世界展開を目指していて。今はまだ国内向けの見せ方を検討している段階ですが、今のうちから各素材がどこの国でなら売れるのかを調査し、輸出や企画のお手伝いができればと思っています。
ー活動から10年。新事業としてキュレーションサイトを立ち上げると聞きました。
10年活動してきて、今一番必要なのは「糸偏業界の情報発信」だと思うようになって。糸偏業界に関わる職種やちょっとした知識、工場やOEM会社のご紹介など、学べて情報検索もできるようなサイトを作ろうと思っています。言うなれば、糸偏業界専用のタウンページ、情報誌ですね(笑)。
ーどうして情報発信が必要だと感じたんでしょうか?
産業の未来を考えると関わるプレイヤーを増やさないとだめで、そのためにはこの業界に興味を持つ人が増えなきゃいけない。でも、今は業界のことを知るためのツールもないし、どんな仕事があるかもわかりづらい。産地見学をしたくてもどこに連絡すればいいのかも開かれてない現状。未来に向けて、業界を知ってもらって興味を持ってもらう手段として、これからたくさんの人に協力してもらってキュレーションサイト化してしまおう、と。10年間の集大成ですね、最後の仕事です(笑)。
ー産地、デザイナー、メディアなど、ファッション業界の中でも多くの人と携わることが多い宮浦さんが思う、ファッション業界に足りてない人材はどんな人だと思いますか?
0→1を生み出せる人でしょうか。ファッション業界って服が好きで華やかな世界に憧れて入っている方が多いと思います。好きなブランドだったり、産業全体の未来を考えると、自分たちが日本から生み出すもので、世界中の人をどう幸せにして、ファッションが好きという人も増やしていかないとなりません。
ー中でも特殊な「ファッションキュレーター」という仕事を担う、糸編に必要な人材はどのような人物ですか?
「その時代に求められていることをやる」という意識が強い人ですかね。「繊維産地を活かして、面白いクリエイションになるようにお手伝いする」というミッションに対して、身体一つでどこにでも行けるような人が向いているかもしれません。糸編という名前でありながらおかしな話なのですが「テキスタイルが大好き」というような制作向きの人は、糸編には向いていないかもしれないし、「●●●というブランドが大好きです」という人も向いていないかもしれません。じゃあどういう人が向いているかというと「ファッション業界には携わりたいけど、デザイナーやパタンナーのようにがっつり一つの服に向き合いたいわけではなく、ものづくり産業全体をサポートしたい」という人に適正があるのかな、と。僕たちの活動が世の中にどのような影響を与えるかといった、意味を考えるのが好きな人にはおすすめできます。
ー最後に今までの10年の振り返りと、今後の展望を教えて下さい。
10年前に名刺に「ファッションキュレーター 宮浦晋哉」と書いて活動をはじめて、ほとんどの人にとってよくわからない存在だったと思います。産地をまわって、本を出したり展示会を作ったり学校をはじめたり。もしかしたら今も怪しまれているかもしれません。でも理解してもらいたいとは思ってなくて、デザイナーさんのサポートも、産地の魅力を国内外に発信したいのも、僕と同じように産地の魅力に魅了される人を増やしたいのも勝手にやっていることなので。勝手な活動というのが前提ですが、結果的に産業の未来に貢献したいと思っています。走れるところまでやっていこうという展望です。
(聞き手:古堅明日香)
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