海外で挑戦 倒産の危機
経営者兼デザイナーとして、名実ともに成功を掴んだ小西。1993〜94年のブランド絶頂期には年収が数億円に達し、高級車を乗り回しながらも、デザインとものづくりに没頭する日々を送っていた。そんな小西が次に狙ったのが世界。ニューヨークに進出を果たし、永遠の成功が約束されたかのように思われた。しかし国内事業が徐々に傾きはじめ、気付いた時にはもう手遅れ。一気にドン底へと転落していく。
小西:海外へ進出したのは、もっと売りたいという欲があったから。それでニューヨークにオフィスを構えて、ポールスミスの紹介でニューヨーク・コレクションをやった。ロンドンで展示会を開いた時には、スティングやエルトン・ジョンといった世界のミュージシャンのオーダーを受けたりして、自分はミラノでもやれると確信したんだ。それでつい思い上がって、深入りし過ぎたのかもしれないな。

成功を手に入れた僕は、だんだん"裸の王様"になっていった。その時点ですでに成長が止まっていることに気付きもしないで。悪い話は僕の耳には届かなかったし、少しでも反抗するヤツがいたらクビにした事もあったな。偉そうにしていたんだよ。そんな自分も甘かったんだが、何百人といるスタッフもみんな馬鹿だった。これは今の業界にも言える事かもしれないけれど、過去の栄光にしがみついているだけのアナログだったんだ。そうこうしているうちに、日本をパッと振り返ったら、そこにあったのは借金の山。 僕が海外で成功しようなんて意気込んでいるうちに、負債が15億円までふくれあがってた。さすがに途方にくれたね。
今こそウェブとかインターネットとか言い始めてるけど、いつもファッション業界が着目するのは遅い。ひどいもんだよ。世の中がどんどんIT化していく時に、意地になって「アナログが格好いい」とか言っていたら置いて行かれるだけ。時代の流れっていうのを認めていかないとしょうがないんだ。新しい環境や時代がスタートしてるんだから。あの頃の僕は、それをわかっていなかったんだな。
ドン小西の誕生 ファッションチェックが武器に
47歳で何もかもを失い、残ったのは膨大な借金と身体ひとつだけ。売るものといえば自分自身しかなかった。再起のきっかけになったのは、とあるTVプロデューサーが名付けた「ドン小西」の名で行う「ファッションチェック」。コレクションで培った意外な力が役立った。

僕の「ファッションチェック」は、ただのエンターテイメントとは違うんだよ。そのルーツは、年2回のコレクションを発表していた頃にある。僕のデザインは物凄く凝っていたから、ショーの舞台裏はそれはもう大変だった。ショーの直前まで細部の調整が必要だったんだ。現場では、100体以上のコーディネートを目の前にした瞬間に、一気に修正箇所やベストなスタイリングを決めていく。「ブーツやめてサンダルにしろ」「このパンツを七分丈にしろ」「袖切って直せ」とか、バンバン指示を出していった。まるで戦争だよ。このショーのために半年間で1億円以上かけてるわけだから、失敗なんて許されない。でも、人間って追い込まれた時に力を発揮出来るようになるんだよ。
そんな事をやってきたら、いつのまにか普段の生活でも他人のスタイルに物を言うようになってた。3秒あれば、全身のバランスや色やコーディネートを分析出来るんだ。そして、それが「面白い」と言われてテレビに出る事になった。これが「ファッションチェック」の始まり。借金で何もかも失った時に残ったのは自分だけだったし、売り出して行くしかないじゃない。辛口と言われようが、的を得た事を言わないと意味が無いよね。あの修羅場を何度も乗り越えてきたからこそ、今の僕があるんだ。「ファッションチェック」は、僕の人生の現れのひとつとも言えるね。
>>次のページは、ドン小西が日本のファッション業界の「今」を斬る!
ADVERTISING
ADVERTISING
PAST ARTICLES
【ふくびと】の過去記事
F/STORE
新着アイテム
1 / 5
ドン小西
現在の人気記事
NEWS LETTERニュースレター
人気のお買いモノ記事