ー(上)から続く。
岡山県で生まれ育ったRIE OMOTOさん。幼少期は男の子と一緒に木登りしたり、基地を作ったり、やんちゃだったというが、おばあさまの言うことだけは素直に受け入れていたという。高校時代は名門のバレーボール部に入り、朝から晩までバレーボール漬け。足を怪我して引退後は、通っていた美容室のヘアスタイリストの方の勧めで美容学校に入学。ここからRIEさんの、メイクアップアーティストへの道が広がっていく。連載【美を伝える人】「THREE」RIE OMOTO氏(中)
ーファッションありきの美容、だったわけですね。インターン時代の思い出は?
教え方の上手なヘアサロンだったので、上達も早く、いろんな経験もさせてもらえて楽しかったです。その反面、美容学校は退屈で退屈で…。ひたすらロッドを早くきれいに巻く練習をしたり、とんでもないデザインの髪を作らされたり。試験に合格するための授業、という感じなので、やっぱり面白くはないですよね。「これをやりなさい」と言われるのが苦手な性分なので、苦痛でしかありませんでした(笑)。
ーそんな苦痛を乗り越えて美容師免許を取得したあとは、インターンをしていたサロンに就職されたんですか?
はい。でも1年半ぐらいで、すぐにロンドンへ行きました。
ー何かつてはあったんですか?
いえ、まったく(笑)。でも、ファッションだけでなく、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)とかイギリスの音楽にも影響を受けていたので、どうしても行きたかったんです。
ーわりと勢いに任せてロンドンへ旅立たれたのですね。住まいやお仕事はどうされたんですか?
ヘアサロンのお客さまから、「あなたロンドンに行くならこれを小篠美智子(コシノ・ミチコ)さんに渡して」って、荷物を預かってしまったので、ロンドンに着いてすぐにミチコさんのブティックへ行きました。
コシノ・ミチコを詳しく
大阪府岸和田市生まれ。NHK朝のテレビ小説「カーネーション」のモデルとなった日本のファッション界の第一人者コシノ アヤコの三女。コシノ ヒロコ、コシノ ジュンコを姉に持ち世界的に有名なファッションデザイナー、コシノ三姉妹の一人。1973年、単身渡英し以来ロンドンを拠点とする。1986年に「MICHIKO LONDONKOSHINO」をスタートし、欧米だけでなく、日本を始めとしたアジア諸国へ進出し成功を納める。また世界で初めてブランド コンドームを発表し、エイズ撲滅などの社会貢献にも積極的に参加する。
ーそんなお願いするお客さまも、それを引き受けるRIEさんも面白すぎます(笑)。
ですよね(笑)。とりあえず地図を片手にブティックへ行きました。当時英語もまったく話せなかったから、ミチコさんに会えることを願って、スタッフの方に「MICHIKO, please!」とか言って(笑)。そしたらミチコさんが出てきてくれたので、無事に荷物を渡せました。
ー「MICHIKO,please!」って言ってご本人が出てくるのすごいですね。信じられない(笑)。
ロンドンのリアルを見たいし、生きた英語も勉強したかったので、「お手伝いをさせてください」って相談してみたら、ミチコさん気さくな方だったので「いいよ」って(笑)。その日からミチコさんのブティックでお手伝いをしました。英語を勉強しつつ、店舗のスタッフになったりフィッティングモデルみたいなことやったり。
ーええっ!? 嘘みたいな幕開けですが、憧れのロンドンでの暮らしはいかがでしたか?
経済的には苦しかったのですが、精神的にはとっても豊かになりました。道端に落ちている石ころですら「カッコいい!」って感動するぐらい毎日が刺激的で、とにかく楽しかったです。岡山にいた頃は、「グリーンの丸坊主で自転車飛ばしている変わった人」という規格外な存在で目立っていたし、周りにいろいろ言われるたび「ほっといて!」って、いつもいつも思っていましたが、ロンドンではそういうのがまったくありませんでした。自分が思うことを自由に言っていいし、人と違うことが当たり前というムードが本当に居心地よくて。海水魚が海に戻った、やっと呼吸ができるようになった、そんな感じです。
ーロンドンでの忘れられない思い出は?
カムデンマーケットにいくのが大好きだったのですが、そこで念願の「ドクターマーチン(Dr.Martens)」のブーツを買った時ですね。「これを一生履き続ける!」と心に誓いました。その時、真っ赤なシャツに黒いパンツを履いている、背が高くてめちゃくちゃかっこいい人が歩いてきて、「誰だろう?」と思って良く見たら、今でも大好きなミュージシャンの1人、ニック・ケイヴ(Nick Cave)だったんです! もう本当にカッコよくて、一生忘れられない思い出の日になりました。
ーコシノさんの話といい、ニック・ケイヴの話といい、何となくおばあさまの不思議な力がRIEさんにも宿っているような感じがしてしまいます(笑)。ロンドンではほかにどんなことをして過ごしていたのですか?
音楽が好きだったので、クラブ通いをしていました。何か自分を表現したくて、Gジャンにどこかの布を買ってタペストリーみたいなのをつけたり、帽子も手縫いで作ったりして、とにかく目立とうと。ロンドンのクラブって、目立つ格好をしていると、特別に入れてくれたりしたんです。
ー手縫いで帽子を作るなんてすごいですね! それでもやっぱり服飾の道へは行かなかったのですね。
ほんと、なんででしょうね(笑)。結局3年間もいたし、服飾の学校へ行くという選択肢もあったとは思うんですけど、やっぱり作るよりも、「この服にどんなヘアメイクを合わせよう」と考える方が楽しかったからだと思います。
ーメイクの道を志したきっかけはなんだったのでしょうか?
「i-D」という雑誌を見て、メイクの可能性を感じたから。当時、日本ではヘアが主流で、メイクはあまり注目されていなかった頃で、ヘアは奇抜なのにメイクは普通、みたいなビジュアルを目にするたび違和感を感じていました。そんな時「i-D」に出合って、「メイクって、こんなに色々できるんだ!」って感動して。よくよく読んでみたら、クレジットに「メイクアップアーティスト/○○○○○」って書かれていて、そこで初めてメイク専門のお仕事があることを知ったんです。そこから興味が湧いて、フォトグラファーやスタイリストのお友達と一緒に作品作りをするようになりました。その時はまだ、おままごとみたいなものでしたけど。
ーロンドンでメイクアップアーティストとしての活動をスタートされたのですか?
いえ、パリへ行く機会を得てからですね。
ーパリ?
はい。実は、ロンドンで3年間過ごしたあと、帰国して岡山でビジネスパートナーと「ガイア」という美容室を立ち上げていたのですが、オープンから少し経った頃、「世界的メークアップアーティストのリンダ・カンテロ(Linda Cantello)が、パリでメイクアップセミナーをするらしい」という情報をキャッチして。とっても高額だったので悩みましたが、どうしても行きたくて思い切って参加しました。
ーそのセミナーではどんなことを?
2日間のセミナーで最終日には実技があり、リンダから講評をいただける、という感じでした。テーマは「未来」とか、そんなものだったと思うのですが、リンダがすごく褒めてくれたのが嬉しくて。最後のディナーでリンダと話をしていたときに、「仕事をしたかったらパリにおいで」と言ってくれて。「YES!」と即答しました。
リンダ・カンテロとは
英国生まれ。1990年代に「グッチ(GUCCI)」のショーでスモーキーアイを披露するなど、世界を代表するメイクアップアーティストの1人。現在はジョルジオ アルマーニ ビューティ インターナショナル メイクアップ アーティストとしても活躍。
ーえっ!? でも、岡山のお店は…?
そう、美容室を立ち上げたばかりだったんですよ(笑)。ビジネスパートナーは本当に理解のある方で、帰国早々「ねえねえ、私パリに行くわ」って言ったら、驚かれたものの「がんばってね」って快く送り出してくれました。あとで聞いたら、すぐ帰ってくると思っていたみたい(笑)。英語もまだ完璧には話せないけど、チャンスを逃したくなくてすぐパリへ飛び立ちました。
ー怒涛の展開! 今度はパリで、アシスタントとしての日々が始まるわけですね。初仕事や思い出深い出来事について教えてください。
借りていたアパートに着いたばかりのタイミングで連絡があって、「明日ショーがあるからミラノに行って」と。聞けばミラノのファッションウィークのフィッティングがあるから手伝って、ということのようでしたが、右も左もわからないまま行ってみたら、「グッチ(GUCCI)」などのそうそうたるメゾンのフィッティングが繰り広げられていてびっくり。そこにいるモデルたちもケイト・モス(Kate Moss)やらキャロリン・マーフィー(Carolyn Murphy)やら超有名な人たちばかりで。いきなり現実離れした世界に飛び込んでしまったからか、逆に緊張もせず、ただただ必死にメイクをこなして乗り切りました。それがショーの裏方としてメイクをした初めての経験でした。
ーいきなりそんな大仕事! すごい世界ですね。
「明日はここね」っていうふうに前日にスケジュールが送られてくるので、本当に毎日バタバタ。ショー以外の雑誌のお仕事もあり、とにかく目が回るような忙しい日々でした。フランス語も話せないし、すごい人たちに囲まれて引け目を感じてしまったりと、大変なことも多々ありましたが、やっぱり学びはたくさんあり、パリでの生活が、またひとつ自分を大きく成長させてくれたなと思います。ファッションのお仕事はチームワークで作るもの。だからこそ、自分も周りと同じレベルにいなくてはと技術もマインドも高め続けなければいけないとすごく感じて、暇さえあれば新しいメイクのアイデアを考えたり、コミュニケーションスキルを磨いたりして、徐々に自信をつけていきました。必死にアシスタントとして食らいついて、3年ほどで独立しました。
ーパリで独立されて、すぐNYへ行かれたのはなぜですか?
エディトリアルの仕事はあってもそんなに稼げていなかったことと、フランスはビザを取るのに時間もお金もかかるので、思い切って拠点を移すことにしたんです。たまたま仕事でNYへ行った時に、竹を割ったようなまっすぐな直線、無機質な街並みと晴れやかな青空を見て、全てがパリ違うところが新鮮に感じて。当時、NYはファッションの中心として注目されてきた頃だったから、「よし、行こう」と。すぐにエージェンシーを探しました。
ーNYでの仕事や忘れられない出来事は?
仕事を順調にいただけるようになった頃、一度大失敗したことがあって…。
ー大失敗? 聞くのが怖いですが教えてください(笑)。
大きな撮影を控えた前日の夜、親しい仲間たちとお酒を飲みながら、楽しすぎる夜を過ごしたんです。翌朝目覚ましの音が聞こえず大寝坊してしまって。「Where are you?(どこにいるの?)」ってエージェントからの電話で飛び起きました…。
ーゾッとします…。
しかもこの日はロケで絶対に遅刻は許されないし、モデルはミッシー・ライダー(Missy Rayder)。「みんながお前を待ってる」って言われて、大急ぎで駆けつけました。嘘や言い訳を言っても仕方がないので「昨日遊びすぎて目覚ましの音が聞こえなかった…ごめんなさい!」と謝り倒しました。これが日本だったらどうだったかわからないけれど、「お前、やらかしたな~」って言われたぐらいで怒鳴られたりもしませんでしたが、だからこそ、もうこんな失敗2度とするまい、前日の夜は飲まない、と心に誓いました。
NY時代
ー下手なホラーよりも身の毛もよだつお話ですね(笑)。
はい(笑)。そんなこんなで、仕事との向き合い方も変わっていき、お仕事も順調に増えていきました。とってもありがたいんだけど、毎日忙しいから全然遊びにいけなくなってちょっと複雑ですけどね(笑)。ー(下)に続く。
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