ビューティ業界で注目を集めるトップランナーとして走り続ける人たちの、幼少期から現在までをひも解く連載「美を伝える人」。企業編の第6回は、「シン ピュルテ(SINN PURETÉ)」のブランディングを手掛けるアナイスカンパニーの上妻善弘 社長にフォーカス。実はファッション畑出身だという上妻社長が、ビューティとの意外な出合いのきっかけ、クリエイティブエージェンシーを立ち上げた経緯を深掘っていく。穏やかな口調の中には、ファッション・ビューティに対する情熱的な意志が垣間見えた。
目次
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実家は100年以上続く老舗 呉服屋 小学校時代の将来の夢はバスケ選手
ービューティ業界ではシン ピュルテのイメージが強いのですが、アナイスカンパニーではファッションやビューティブランドの広告ヴィジュアルやサイトデザイン、ムービー制作など多岐にわたるクリエイティブを手掛けているんですね。幼少期はどちらに興味があったんですか?
最初はファッションですね。実家が100年以上続く呉服屋を営んでいたので、ファッションの原体験としては和装です。とはいえ365日和服だったということはなく、身近に装い・服装に意識的になる機会が多かったと言いますか。
実家の呉服屋さん
幼少期・七五三
ーすごいですね!。100年も続く老舗を営むご家庭だと、周りには大人が多かったのではないでしょうか?
そうですね。特に僕は長男なので、幼い頃から大人がいる席に同席することが多かったと思います。そうすると、自然と大人じみていくというか、周りの空気を読みながらコミュニケーションする社交的な子どもだったそうです。
ーそうだったんですね。長男ということは、家業を継ぐことを意識されていたのではないでしょうか?
福岡が地元なのですが、周りに家業や病院を経営してる友人も結構いたこともあって、なんとなく大人になったらそうなるんだろうな、という意識はありました。でも、小学校の頃は当時大流行していた「スラムダンク」にハマって、宮城くん(宮城リョータ)と三井くん(三井寿)に憧れて、バスケットボール選手を目指してましたね。興味があることに対してはもの凄く負けず嫌いな一方で、それ以外に対しては冷静な少年でした。
ー自分の将来について考えるタイミングも、ほかの子より早かったんでしょうか?
おそらく周りの子よりは早かったと思います。高校生になるとコミュニティが広がって、それまでは何となく家業を継ぐものと思ってましたが、そうじゃない生き方が身近にあふれてくる。いろんな可能性が見えてくる反面、「今どうするか決めないといけないんじゃないか」と考えるようになりました。
ー一般的な学生よりも、決断を迫られる状況だったんですね。バスケ以外で学生時代にハマっていたことは何かありますか?
中学生くらいから、地元のセレクトショップに通うようになっていて、当時は個人オーナーの“個性が強い”お店が多くて、そういう人たちからファッションや関連したカルチャー、音楽の話を聞くのが好きでした。福岡の老舗セレクトショップ「ダイス&ダイス(DICE & DICE)」があって、泉さん(泉栄一さん:同店でトップ販売員・バイイングを担当。現在は自身のブランド「ミノトール」を手掛ける)が普通に接客をしていたような環境で、学生の僕にとってとても刺激的な環境でしたね。高校2年生の時から、僕もセレクトショップでアルバイトをはじめました。実際に働いてみて、さらに業界への興味が深まりました。
学生時代はファッション漬けの日々 セレクトショップで週4アルバイト
ーでは、学生時代はファッション業界を志していたんですか?
漠然とではありますが、方向性としてそっちを向いてましたね。大学は両親の意向もあって4年制のところ、と考えて同志社大学に進学しました。
ー真面目な学生でしたか?
全然そんなことはなかったです(笑)。1、2年生のキャンパスは少し都心から離れているんですが僕は都心に近いところに住んで、週4、5日は当時京都で一番大きなセレクトショップだった「ディバイス」でアルバイトをしていて、授業はそっちのけっていう生活を送っていました。大学生活後半ではまた福岡のショップとのつながりができて、「マイノリティ レッブ(MINORITY REV)」という西日本最大級のお店を手伝わせていただきました。マイノリティ レッブではパリやミラノへの海外出張に連れて行っていただいたり、ショーを見させていただいたり、いろいろなアシスタント業務に携わる機会をいただけたのが本当に面白くて。ファッション業界で働くイメージをより強めていきました。
ーどんどんファッションにのめり込んでいったんですね。
当時のファッションシーンは今とはまた違った雰囲気で、熱量が凄かったですし、運よく僕がつながりを持ったショップは当時話題の中心となったショップでした。ブランドやショップ運営により深く間近で触れましたし、在学中には友人たちとブランド運営も経験しました。京都から服をスーツケースに詰めて東京のセレクトショップに営業も行きましたね。(笑) いまでも別のカタチですが、そのときのクライアントさんたちとお仕事させていただいてます。
ーブランドの立ち上げまで!
今振り返ると、とにかく勢いで始めたのでお恥ずかしい限りですが(笑)。同じ時期に販促にも興味を持ち、仲良くしていた芸大生たちと一緒にウェブデザインを遊び半分ではじめて、セレクトショップや飲食店、美容室のサイトを作ったりもしていました。
ー当時から、現在につながるようなクリエイティブ業務の片鱗があったんですね。
今の自分が見たら全然じゃん!と思うものばかりかもしれないんですけどね。当時はウェブデザインをやっている人がそこまでいなかったのもあって、結構需要があったんです。ファッションもそうだし、制作も楽しいなって、この時はじめて考えるようになりましたね。
サラリーマンを経て福岡のセレクトショップ立ち上げに参加 ジョンマスターオーガニックと出合う
ー刺激的な学生生活を送っていたと思うのですが、卒業後の進路はどうしたんですか?
約10ヶ月、ロンドンで生活をしていて、そこでは大学時代の縁でバイイングのサポートやブランドのPR業務を経験しました。学生時代、ファッションにどっぷりハマっていたものの、この業界でやっていくのか、別の業界にチャレンジしてみるか、なんとなく踏ん切りがつかない状態が続いていました。そんな期間を経て、ゲームチェンジするならと思い、日本に戻るタイミングで一般企業に就職しました。そこではファッションとは全く別の業務をしていました。2年半くらい在籍して、コンサルティング営業から、広告やマーケティング、新規事業の立ち上げなど色々と経験させていただきました。
ー学生時代の経験がかなり刺激的だったと思うのですが、社会人生活は退屈しませんでしたか?
反動はもちろんありましたが、社会人、ビジネスシーンの基礎を学ぶいい機会でした。尊敬できる上司や魅力的な経営者にも出会えました。独立心は当初から強かったものの、サラリーマンとして何か達成してからじゃないと辞めたくないと思っていました。それで自分の目標を数字面の達成と別に、信頼する上司が辞めてほしくないと思わせるくらいまで成長すると決めました。結局それを達成するまでに2年半かかりました。今振り返っても、サラリーマン時代の経験が仕事の基礎として多いに役に立っていますから、遠回りだったとは全く思わなくて、経験しておいて良かったです。
ー退職後は何をしていたんですか?
ちょうど前職を辞めようと考えていたタイミングで、マイノリティ レッブが福岡・平尾に約150坪の2階建ての大型ショップを出店することになり、そのプロデュースをやらないかと誘っていただいたんです。なので、会社を辞めて福岡に戻って、新店舗のロゴやコンセプト、内装を考えていきました。
ー学生時代にはショップの運営業務に触れていたと思うのですが、一からお店を作るとなると話が違いますよね。どんなお店にしようとしていたんでしょうか。
福岡から日本を代表するお店を作りたいと相談を受けて、じゃあ実現させるには何をするのか、と試行錯誤しましたよ。あれもこれも面白いなとアイデアは浮かぶものの、それを一つのお店に整理するのってこんなに難しいんだと実感しました。
ー規模も大きいですし、オープンまで困難もあったんじゃないでしょうか。
困難と不安の連続でしたよ(笑)。福岡の中心から少し離れたところにオープンするので、ここに来てもらう理由がないといけません。まずは品揃えですよね。世界に発信できる素敵なお店を作るから、ここだけで買える別注を作って欲しいとブランドに何度も説明してお願いしました。一緒にやっていた人たちもみんな良い意味でこだわりが強いから、「このブランドはどうしても入れないとダメだ!」っていうのがあるけど、もちろん一筋縄でいかないブランドばかりでしたし。人とのつながりと熱意で、いろんなブランドが想いに賛同してくれて、承諾してくれたのは本当に嬉しかったです。
たくさんのブランド、デザイナーさんたちの協力を得たところで一つ達成感があったのですが、次はオープン後の不安が出てきました。毎月数千万円単位で予算を組んでいたので、本当に達成できるだろうかと。なかなか不安な日々でしたよ。
ー実際にオープンしたお店では、どんなブランドを扱っていたんですか?
2008年にオープンしたのですが、1階は「ランバン(LANVIN)」や「バレンシアガ(BALENCIAGA)」「サンローラン(SAINT LAURENT)」のようなラグジュアリーブランドを扱って、2階では「キャロル・クリスチャン・ポエル(CAROL CHRISTIAN POELL)」や「カルペ ディエム(CDIEM)」みたいなアルチザン系をセレクトしてました。当時のセレクトショップではまだ珍しかったかと思いますが、ギャラリーを設けてアートを展示販売したり、「マルタン マルジェラ(Martin Margiela)」のインスタレーションもしました。
元々メンズが強いお店だったんですが、新店舗のタイミングでウィメンズも強化したいと考えていて、そこで当時はまだ珍しかったんですがライフスタイル商材も扱おうということになったんです。でも、たとえばそういうお店って、カップルなんかで来たとしても片方がつまらなさそうにしてるってことはあるじゃないですか。でも決して安くない買い物だから、もう一人はじっくり集中してもらいたい。だから手持ち無沙汰にならない何かが必要...ということでヘッドスパサロンを併設したんです。そのサロンで取り扱っていたのが「ジョンマスターオーガニック(john masters organics)」だったんです。当時日本ではオーガニックコスメが知られ出した頃で、ブランドのフルラインが揃う、国内初のヘッドスパサロンとして、結構メディアに取り上げられたりして話題になりました。ジョンマスターオーガニックさんとのお付き合いはそこからなんです。
マイノリティ レッブ 平尾
ーセレクトショップにライフスタイルのアイテムが並ぶことは少なくありませんが、ヘッドスパサロンは今でも珍しいですね。
でも案外理になかった戦略なんですよ。こういう高額な商品も揃っているセレクトショップって、顧客の方が2、3ヶ月くらい空いてから、ひょっこり来店したりしますよね。急な来店だとスタッフが少しバタバタしてしまったり、お待たせしてしまうことがあるかもしれない。でもヘッドスパに予約が入ってると、以前何を買われたから今回はこれが合うんじゃないかとか、事前にパーソナライズして準備ができるから接客の質を上げることができるんです。
ーなるほど。今でいう顧客管理のデータ活用を別の方法でやっていたんですね。
今ほどデジタル化しているわけではありませんでしたが、うまくサイクルができていましたよ。
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