宮城県仙台市にある小さな団子屋「仙臺だんご いち福」(以下、「いち福」)。ササニシキ100%の米から手作業で作る串団子や季節ごとの和菓子が大人気で、地元はもとより、県外や外国からの観光客も訪れる。もともとは寿司職人だった父が創業し、現在は兄弟3人で切り盛りする店には、ユニークかつ斬新な店の歴史やキャリアヒストリーが見え隠れする。店やものづくりへの想い、それぞれのキャリアを活かした運営、将来の展望などを長男の岩間竜也さん、長女の武澤喜代恵さん、次男の岩間隆司さんに語っていただいた。
ADVERTISING
家族も寝耳に水だった、寿司屋から団子屋への転身
― 「いち福」さんは、寿司職人だったお父様が1986年に創業した団子屋さんなのですね。なぜお父様は、寿司から団子の世界に飛び込んだのでしょう。
岩間竜也さん(以下、竜也さん):私たちが子どもの頃、両親はここで10年ほど「好寿司」という江戸前の寿司店を営んでいました。ところが長男の私が小学校5年生の頃、父は母に相談することもなく突然、「団子屋をやる」と言い出したのです。驚いた母が理由を聞くと、父の友人の寿司職人がシャリで使っていた米で団子を作って成功したので、教えてもらって団子屋をやりたい、と。
私は当時、寿司屋に憧れていましたから、ものすごくショックでした。私にとって団子屋は儲けも少なそうなイメージで、この先どうなるのだろうと不安になったことをよく覚えています。
ところが団子屋は、予想以上に繁盛して、開店から1年後くらいには、私たち兄弟も手伝わされるようになりました。お彼岸やお盆の時期などは、朝から起こされて、小学生がおはぎを丸めたりしているんです。私は嫌々やっていましたが(苦笑)
武澤喜代恵さん(以下、喜代恵さん):私は兄とは逆に、団子づくりのお手伝いが楽しくてたまりませんでした。まだ小学校低学年で背が低いので、調理台はものすごく高いし、力も弱いのですが、やりたくてやりたくて親に頼み込んで手伝わせてもらっていました。
最初は、兄弟の誰もが団子屋を継ぐ気はなかった
― ただ、大人になってからは、皆さん別々の道に進まれていますよね。
喜代恵さん:団子屋の手伝いは好きだけど、仕事として団子屋をやりたいという気持ちはなかったので、学校卒業後はOLとして働いていました。その頃会社で知り合った人にパンの魅力を教えてもらったことがきっかけで、パンづくりに興味を持ち、パンの学校に行って、パン職人になりました。結局は何かを作ることが好きだったのでしょうね。
岩間隆司さん(以下、隆司さん):私は小さい頃から食にあまり興味がありませんでした。ただ、昔から手先が器用で、工業高校時代のサッカー部では、1年生の坊主頭を刈るバリカン係だったんです。2年になって髪を伸ばしてもよくなったときも、すきバサミを買って、みんなの髪を整えるのがサッカーよりも面白くて。美容師を目指そうと思い、仙台の美容専門学校に進みました。
竜也さん:私はバーテンダ―に憧れて上京しました。当時渋谷にあったバーテンダースクールに2カ月通ったあと、銀座のバーで働きました。といっても、思い描いていたモテてカッコいいバーテンダーではなく、下働きみたいな感じでしたが(苦笑)。ただ、オーナーのママさんが、常連だった高級飲食店によく連れていってくれたんです。私の給料ではとても行けないような店に行けた貴重な経験から、いろいろなことに物怖じしなくなりました。
― まったく別々の道に進んだ皆さんが、なぜ団子屋を継ぐことになったのでしょう。
竜也さん:東日本大震災の翌年に、父の癌が見つかりました。それでも父は入退院をくり返しながら店を続けていたんです。当時はパン職人をしていた妹が店を手伝い、父、母、妹で店を回していました。
喜代恵さん:父は退院するとすぐに店に来て仕事をするんです。その姿を見ていると、父が仕事ができるうちは何とか一緒にやりたいと思っていました。
竜也さん:最初は妹に任せておけばいいかな、という感じだったのですが、いろいろあって仙台に戻ってきてからは、長男の私も一緒に店をやろうと思い、父に仕事を教えてもらいました。ただ、バーテンダ―を辞めてから営業の仕事をやっていた私は、父からすると兄弟のなかでは一番信頼がなかったのかもしれません。
隆司さん:私は美容師として働いていたのですが、美容師だと土日が仕事なので、団子屋を手伝うことができません。そこで土日に休める美容師の専門学校の講師になって、少しずつ店を手伝うようになりました。
竜也さん:弟は手に職もあるし、キャリアを諦めるのはもったいないと思いました。でも、3人でやろうという想いは3人とも強く、父の遺産でもある店を引き継ごうと決めたのです。
セカンドキャリアならではの運営と、伝統へのこだわり
― お三方のこれまでのキャリアの活かし方も模索されたのでしょうか。
隆司さん:兄はものを売ることが得意で、百貨店の催事や前職の営業でも抜群の売り上げ実績がありました。販売力がすごいんです。姉は団子を作るのが上手くて、商品開発へのアイディアも豊富です。じゃあ、私は何ができるのかと考えたときに浮かんだのが「発信」でした。
うちの団子屋って、自分たちからまったく宣伝していなかったんです。でも、口コミの評判はとてもいい。そこで私はInstagramで店のことを発信して、もっとたくさんの人に知ってもらおうと思いました。美容業界では、自分の作品をInstagramで発信することが当たり前なので、見せ方や発信方法などは私の得意分野だったのです。
― お父様の想いや味へのこだわりは、どのように引き継いでいらっしゃいますか。
喜代恵さん:手づくりや味へのこだわりは、父の時代から変わりません。父に教わったことを軸としつつ、私たちならではの新しいやり方もプラスしながらものづくりをしています。団子だけではなく、イチゴ大福、生チョコ大福、レモン大福なども人気ですし、季節限定の商品も出しています。
竜也さん:団子の材料となる米は、父の寿司屋時代からずっとササニシキを使用しています。ササニシキは作るのが難しくて、今は生産農家さんも激減しているのですが、何とか農家さんにご協力いただきながらササニシキを仕入れて使っています。また、米を粉にして団子を作るのではなく、添加物や保存料を一切加えず、米だけをつぶして作り、それにたっぷりの餡をのせる製法も変えていません。
この作り方だと、時間がたつと団子が固くなるので、当日限りの団子なのですが、それが美味しさの秘訣にもなり、お客様から長年に渡ってご購入いただいています。
― お菓子教室も2024年からスタートされたそうですね。
竜也さん:手づくりにこだわっているので、作る量はこれ以上増やすことはできません。でもそうなると現状維持だけになってしまいます。そんなとき弟から、お菓子教室をやってはどうかと提案がありました。うちのお客様は、若いお母さんが多くて、Instagramのフォロワーさんもその世代が主流なんです。そうした方々をターゲットに、お菓子作りの教室を始めました。人気は上々で、親子で参加されたり、県外からわざわざいらしてくださる方も増えています。
― 今後の展望について教えていただけますか。
隆司さん:私自身は、団子屋だけの枠にとらわれず、いろいろなことにチャレンジしたいと思っています。お菓子教室もそのひとつですが、今後は私たちのキャリアヒストリーのノウハウを、何かに活かせたらいいな、という想いもあります。たとえば小さなファミリービジネスをやっている飲食店や店舗さんのお困りごとのお手伝いをするなど、人のためにできることも模索しつつ、実現できたらと考えているところです。
竜也さん:兄弟3人、それぞれ得意なことも考えていることも違いますが、それがバランスよく絡んで店の運営につながっています。それぞれ我が出るときもありますが、うまくいっている秘訣は喧嘩をしないことですね。私、妹、弟、この順番が違っていてもうまくいかなかったと思います。これからも兄弟仲良く、よりよい店づくりをはじめ、お菓子作りを軸にした交流の場の提供など、新しい挑戦を続けていきたいです。
文:伊藤郁世
撮影:佐藤大人
ADVERTISING
PAST ARTICLES
【NESTBOWL】の過去記事
RANKING TOP 10
アクセスランキング
銀行やメディアとのもたれ合いが元凶? 鹿児島「山形屋」再生計画が苦境