1822年、スイスで生まれた老舗の高級時計メゾン「ボヴェ(BOVET) 」。国内で唯一の実店舗である「ボヴェ ブティック銀座」には、時計愛好家垂涎の芸術作品ともいえるタイムピースが並ぶ。店舗の立ち上げから日本法人の設立に携わった酒井俊樹さんは、「ボヴェ」に至るまでに6つものラグジュアリーブランドを渡り歩いてきた。ラグジュアリー業界で、派遣社員からスタートした酒井さんのキャリアとは。親交がある人材コンサルタントの北川加奈さんが紐解く。
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酒井 俊樹さん / Bovet 1822 Japan 株式会社「ボヴェ」ブランドディレクター
高校卒業後、父の海外赴任をきっかけに渡独。語学学校に通いながらアルバイトとマイスター制度での経験を経て、ラグジュアリー業界に興味を持つ。2006年に帰国し、24歳のときに「カルティエ」の接客・販売に派遣社員として従事。時計への関心が高まり、「ヴァシュロン・コンスタンタン」に転籍後、派遣社員から正社員に登用。「ピアジェ」「ラルフローレン ウォッチ&ジュエリー」「ショパール」「ブルガリ」で販売、営業、マネジメント職を経験。その後、DKSHジャパン株式会社に入社し、「ボヴェブティック銀座」を開業。ボヴェのオーナーであるパスカル・ラフィ氏の任命により、2021年6月ボヴェジャパンを設立。現在、ブランドディレクターとして「ボヴェ」の魅力を伝えている。
北川 加奈さん/エーバルーンコンサルティング株式会社 ヴァイスプレジデント・人材コンサルタント
静岡県出身。英国への留学を経て、英語教師としてキャリアをスタート。その後、人材業界に転身し、外資系人材コンサルティング会社にてキャリアを積んできた。2021年エーバルーンコンサルティングの上級職に就任。ラグジュアリー、ファッション、ライフスタイル、コスメティック業界に専門性を持ち、外資系クライアントのエグゼクティブサーチを中心に強みを発揮している。また「歩く人材データベース」とも呼ばれ、業界でも屈指のネットワークを誇り、キャリアを通じての人材紹介数は3,000件を超える。平日にはハイブランドのファッションを愛するかたわら、週末にはアウトドアを愛し都市と自然の調和の取れた生活を、愛犬とともに送っている。
高級ブティックに魅了され、ラグジュアリー業界を志す
ー 学生時代はサッカーに夢中だった酒井さん。販売職に興味を持ったきっかけを教えてください。
父のドイツ・ミュンヘンへの海外赴任に伴い、高校卒業後はミュンヘンへ渡りました。現地では語学学校に通いながら小学生の頃から好きだったサッカーをしたり、アルバイトをしながら過ごしていました。日本人女性が経営する食料品店でアルバイトをしていたとき、同じくその女性が経営する真珠店でも働いてみないか、と誘われたことが接客の原点です。
真珠店で働くうちに技術を身につけたくなり、ジュエリーデザイナーの道を目指すようになりました。ドイツには「マイスター制度」という職業訓練制度があり、真珠店の仕事と掛け持ちしながらドイツ人の彫金マイスターのもとで、ジュエリーの加工技術の基礎を学びました。
ー 最初はジュエリーデザイナー志望だったのですね。
そうなんです。まだ下っ端だった私は、ミュンヘンにある「ブルガリ」のブティックで修理品の受け渡しの仕事を担当していました。生まれて初めて高級ブティックを訪問し、キラキラとした華やかな店内を見たときのあの感動は今でも鮮明に覚えていて、決して忘れることはありません。それがきっかけで華やかなブランド業界で仕事をすることに憧れを抱くようになりました。
派遣社員からキャリアがスタート
ー 24歳で帰国。日本では、どのようにしてキャリアを歩まれたのでしょうか。
ジュエリー業界での仕事を探していたときに派遣会社のネット広告が目につき、すぐに登録。派遣会社を通じて最初に就いた仕事が「カルティエ」です。トントン拍子に進み、登録した翌週には店頭に立っていました。日本でのビジネスマナーや高級商材を扱う際の所作、接客についてなど、多くのことを社員の方から学びました。
ー 「カルティエ」で働く中で、時計に強く関心を持たれたそうですね。
ベテラン社員の方が、機械式時計の魅力を語ったり、高価格帯の時計を販売していたりする姿がとてもかっこよく見えて、時計ブランドの仕事に憧れを持ったんです。
その頃、「SIHH (ジュネーブサロン)」という毎年スイスのジュネーブで行われる世界最大の宝飾と時計の見本市の存在を知りました。「SIHH」へ行くためには、正社員として長く勤め、その中でも認められた人しか行くことができないことが分かりました。そこで、正社員になることを一つの目標に掲げつつ、時計に関する知識や接客の経験をさらに積み重ねたいという想いから、同じく派遣社員という立場で「ヴァシュロン・コンスタンタン」に移りました。
ー 「ヴァシュロン・コンスタンタン」へ入社した後はどのようにキャリアを積み重ねていかれたのですか。
私が勤務したのは、「オーデマ・ピゲ」や「パテック・フィリップ」などが並ぶ大手百貨店内の時計売り場でした。そこでは、派遣社員でありながら店舗責任者として1人で商品管理や売上管理を担当。百貨店の方や、他ブランドのベテランの販売員の方々に揉まれながら、200万円ほどもする時計を毎月コンスタントに販売することができました。その実績を評価していただき、念願だった正社員に。そしてジュネーブの本社研修や「SIHH」に参加することができました。
ー 順調にキャリアアップをされたのですね。その後は「ピアジェ」を経て、 「ラルフローレン ウォッチ&ジュエリー」に移られました。どのような経験をされたのでしょうか。
表参道にあるアジアで一番大きな旗艦店の時計サロンにウォッチスペシャリストとして勤務していました。それまで「ラルフローレン」では高価格帯の時計を展開していましたが、私の入社当時は時計部門が立ち上がってから3年目を迎えたばかりで、お客様が求めやすい価格帯の時計を売り出しはじめたタイミングでした。結果的に、その店舗では爆発的な売り上げを記録。ニューヨーク本店を超えて2年連続で世界一の売り上げを叩き出すことができ、そのことは私にとっても大きな自信になりました。「ラルフローレン」は、それまでアパレルが主軸だったので、時計が売れ始めてイチからオペレーションをつくり上げていきました。
その後「ショパール」でアシスタントブティックマネージャーとして2年間勤めた後、「ブルガリ」にチーフ(副店長)として入社。ここでマネジメントを勉強させていただきました。
ブランドディレクターとして「ボヴェ」の独立に携わる
ー 「ブルガリ」を経て 「ボヴェ」へ。銀座にブティックをオープンさせてすぐに、コロナが流行したそうですね。
「ボヴェ ブティック銀座」を開業してわずか5ヶ月でコロナ禍に突入。自宅待機のときは、家でデスクワークをしたり、セールストレーニングの資料を作成したりしていたのですが、先が見えずに目標を失い、仕事に対するモチベーションも下がりました。
「このままでは職を失うかもしれない」と思い、ブランド業界から離れて、コロナ禍でも求められる職種に就くことも考えました。社内で退職する方もいましたが、私は店舗責任者としての立場もあったので会社から解雇を言い渡されるまではしがみつこうと思っていました。私のキャリア人生の中でもメンタルがドン底だった時期ですね。
ー 大変な時期を乗り越えられたのですね。「ボヴェ」のトップ、パスカル・ラフィ氏からブランドマネージャーに指名された背景を教えてください。
2021年3月上旬のある日突然、後に私の上司となるロマン・ミレ氏から「オンラインミーティングをしたい」という1通のメールが届きました。そして、ボヴェのオーナーであるパスカル・ラフィ氏との緊急ミーティングが開かれ、「ボヴェ」の日本法人ボヴェ・ジャパンの設立依頼と、ブランドマネージャーの職をその場で与えられました。突然すぎる出来事と、責任と重圧から断ることも考えましたが、これまでのブランドでの経験を活かしてチャレンジしてみようと思いました。
その後、ボヴェ・ジャパンの設立から、ビジネス戦略立案、取引先の再選定、DKSHからの業務引き継ぎ、店舗の賃貸契約、スタッフの雇用、アフターサービス、商品選定などまで、ブランド運営に最低限必要なオペレーションを2ヶ月間でゼロから作り上げました。
自分の中にある「憧れ」を尊重し、キャリアを築く
ー これまで7つのブランドを経験されてきましたが、どのような考えで仕事と向き合い、ステップアップされてきたのでしょうか。
周りの方々に支えられ、助けていただきながら、この業界で長くお仕事をさせていただいています。これまで関わった上司、先輩、同僚、他ブランドの先輩の方々、そしてお客様には本当に感謝しかありません。
キャリアを築く上で私がもっとも大切にしていることは、内に抱く「憧れ」を素直に尊重すること。新しい環境に身を置くことは、エネルギーがいりますが、憧れの感情が伴う転職は、たとえ困難が起こっても転職したことを後悔することはないと思います。
私は出会いやご縁を大切に、ブランドを選んできました。「この時計カッコいいな、着けてみたいな」「こんな販売員になりたいな」「こんなマネージャーになりたいな」「こんな経営者になりたいな」と、憧れの連続でした。それぞれの配属先店舗で与えられた仕事をしっかりと理解して、関わる方々と素直に誠実に向き合い、そこで経験する成功と失敗から、何か自分のキャリアや人生のプラスになる学びを得たいという前向きな気持ちで仕事をしてきました。
ー 「ボヴェ・ジャパン」でのお仕事について教えてください。
「ボヴェ・ジャパン」を立ち上げてから「選択と集中」を意識し、スピーディに経営基盤を設計しました。ボヴェは日本に上陸して約20年。これまでコツコツと築かれてきた販路と販売方法を抜本的に見直す必要がありました。これまでの複数ブランドの販売経験に基づく独自視点の商品選定で時計愛好家が好むコレクションを取り揃えて、取引先と商品を絞り込み、短期的に集中してリブランディングを行いました。
出口の見えないコロナ禍で会社設立から2年半、当時掲げた売上予測を大幅に超えることができています。キャッシュフローを改善させるためには大きな改革を実行することが急務でした。ラフィ氏からは、「ブランドを成長させることは、子供を育てることと同じで時間はかかるものだが、温かく成長を見守ることが大切だ」と教わりました。
ー これからの販売職に求められること、販売職の未来についてはどのように考えていますか。
お客様と接することができる販売職は、ブランドのお仕事のなかで一番の花形職だと思っています。100年、200年と時代が変わろうと、ブランドの歴史やアイデンティティが変わることはありません。販売職はブランドの看板を背負い、その魅力を生きた言葉でエンドユーザーに伝えることができる職種です。
そんな場面に立ち会える喜びと責任感を持ちながら、販売職という仕事に自信と誇りを持って良いと思います。SNSを通しての表現や、eコマース、LIVEコマース、動画コンテンツ、その先に訪れるかもしれない仮想空間上でも、集客し、商品を紹介し、物を売るというスキルは必要不可欠。そのスキルを磨き上げることが重要です。特に高級商材は、感情が伴わなければお客様に販売することはできませんので、今後も求められる職種だと思います。
ー 酒井さんの今後の目標や展望を教えてください。
「ボヴェ」のユニークなタイムピースは、時計というジャンルにおさまりきりません。ひとつひとつを芸術作品と捉えることもできます。「タイムレス アートピース」という新しいジャンルをどのように日本に浸透させるか、これが今の私の最大のチャレンジです。
ブランド業界での仕事は私の天職だと思っています。約20年前にブランド業界に憧れた、あの感動が記憶にある限り、このラグジュアリー業界で仕事をして恩返しをしていきたいです。
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