「ディオール」の公式インスタグラムより
「ディオール(DIOR)」の第3代目デザイナーだったマルク・ボアンが9月6日にフランス・ブルゴー ニュ地方のシャテイヨン・シュル・セーヌで死去した。97歳だった。最も長く(1960年〜1989年) 「ディオール」のデザイナーを務め、最も有名でない「ディオール」のデザイナーだった。
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ファッションクイズで創業デザイナーのクリスチャン・ディオールから現在のマリア・グラツィア・キウリまでの7人のデザイナーを挙げろという問題があったらこの第3代目のマルク・ボアンが最も思い出せないのではないだろうか。
・初代:クリスチャン・ディオール(1946〜1957)
・第2代:イヴ・サンローラン(1957〜1960)
・第3代:マルク・ボアン(1960〜1989)
・第4代:ジャンフランコ・フェレ(1989〜1996)
・第5代:ジョン・ガリアーノ(1996〜2011)
・第6代:ラフ・シモンズ(2012〜2015)
・第7代:マリア・グラツィア・キウリ(2016〜)
ボアン訃報に接して、改めて彼の経歴を調べてみた。ボアンは1926年パリに生まれた。父はアシェット出版の編集者で母は婦人用帽子のデザイナーだった。パリのリセ「Lakanal」卒業後の1945年にロベール・ピゲのもとで修行。その後エドワード・モリヌーの店に移った。1953年秋に自分の店を開いたがファッションショーを1回行っただけで閉店。これ以後、ボアンは自分のブランドを持つことは生涯なかった。つまり、クリエーターとしての自分の才能には見切りをつけてしまったのだ。27歳以後、ボアンのデザイナー人生は雇われデザイナーつまり傭兵デザイナーとしての 人生になった。1954年のジャン・パトゥの主任デザイナー就任などを経て1958年には「クリスチャン ディオール」のロンドン店に移る。ここからがボアンの傭兵デザイナーとしての頂点になる。
創業デザイナーのクリスチャン・ディオールの52歳での急死をうけて、第2代デザイナーに任命されたのは 弱冠21歳の天才イヴ・サンローランだった。しかし、1960年にサンローランはアルジェリア独立戦争で戦っているフランス軍に徴兵される。この徴兵はディオールのオーナーだったマルセル・ブサックが右翼だったためとも言われる。サンローランは軍隊内のイジメで神経衰弱になって入院。
そんな軟弱な奴を「ディオール」のデザイナーにしておくわけにはいかないというブサックの判断でサンローランはクビになってしまう。そして「軟弱ではないストレートな男性デザイナー」として白羽の矢が立ったのがボアンだった。
その後、「ディオール」を含む繊維関連企業であるブサック・サンフレール社は倒産したが、これを現LVMH総帥のベルナール・アルノーが1984年買収した。「ディオール」はLVMH=アルノーが最初に手にした記念すべきラグジュアリーブランドだった。アルノーは、「ディオール」買収後にライバルの「シャネル(CHANEL)」がカール・ラガーフェルドを1983年にデザイナーにしてから見事に復活したのを横目で見ていた。こうしたスターデザイナーによって老舗ブランドが復活するというストーリーを「ディオール」でも実行しようと考えていたようだ。堅実な職人タイプのボアンには今ひとつ満足できなかったのだろう。1989年に第3代目デザイナーに選んだのはなんとイタリア人デザイナーのジャンフランコ・フェレだった。
ボアンは29年務めた「ディオール」チーフデザイナーのポジションを63歳でこの巨漢のイタリア人デザイナーに譲った。まだ引退するには早かったの でロンドンのクチュールハウスのノーマン・ハートネル社でファッション・ディレクターを1990年から1992年まで務めている。ボアンはWWDのインタビューで「私は現実の女性のために服を作っている。自分のためでも、モデルのためでも、ファッション雑誌のためでもない。抽象的なクリエイションは喜んで他のデザイナーに任せる」と語っているが、まさにそんなデザイナーだった。
ボアンが1980年代後半に来日した時に記者会見があって、私も出席した。静かにゆっくりと話す実に地味な印象のデザイナーだった。ある女性記者が「オートクチュール制作の時に、あなたが必ず着ている白い実験着姿がとても素敵です」とラブコールした時に見せたボアンのはにかんだ表情が今でも印象に残っている。合掌。
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