西武百貨店元社長の和田繁明氏
西武百貨店元社長の和田繁明(わだしげあき)氏が7月25日に病気のため亡くなっていた。88歳だった。百貨店業界では、他人にも自分にも厳しい人柄からかワダハンメイと呼ばれて、西武百貨店およびそごうの再建に関わった人物として、勇名を馳せ、「百貨店再建請負人」と呼ばれた。
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一番有名な再建は、和田氏が早大政経学部を卒業して1957年に入社した西武百貨店の再建だろう。35歳で取締役、40歳で常務とトントン拍子に出世した和田氏だが、1983年にレストラン西武社長へ出向。その立て直しを任されたが、社内の人事抗争による左遷という見方もあった。
日本のバブル経済が弾けて不況が本格化し始めた1992年6月に医療機器事業部の架空取引事件が発覚して、社員2名を含む計5名が逮捕される事件が起こった際に、立て直しをグループ総帥の堤清二氏から託され和田氏は代表取締役会長として西武百貨店に復帰。1992年10月には社内報「かたばみ」に特別号として「西武百貨店白書」を刊行。内容は激しい経営陣批判だった。さらに1993年4月には全役員の降格人事を断行。水野誠一社長は副社長に降格し、和田氏は社長になった。こうした荒療治があって1996年2月期には4期ぶりに黒字化。その後4期連続で増収増税を達成し再建を果たした。
その後1996年以降は引退した堤清二氏に代わって、セゾングループの舵取役になった。ここで和田氏が実行したのは簡単に言うとグループの解体だった。ファミリーマート、良品計画、インターコンチネンタルホテルグループなどのグループ会社は売却され、西友もウオルマート傘下になるという決着になった。
その後、和田氏が取り組んだのは2007年7月12日に東京地裁に民事再生法の申請を行ったそごうの再建だった。同年社長になった和田氏は「そごう白書」を執筆し過去の経営陣を厳しく批判した。そごうの再建は急ピッチで進み2003年1月に2年前倒しで再生手続き終了を東京地裁が認めそごうの再建が完了した。
さらに2003年6月には西武百貨店とそごうが合併してミレニアムリテイリングになる離れ業をみせた。そして2006年1月には、2007年を目処に進めていたミレニアムリテイリング(現在のそごう・西武)の株式公開の際に、安定株主を探していた和田氏は、セブン&アイHDの鈴木敏文会長に安定株主を依頼しているうちに経営統合の話が持ち上がり、2006年6月1日にミレニアムリテイリングはセブン&アイの完全子会社になった。
駆け足で振り返って来たが、和田氏の1957年の西武百貨店入社の50年に及ぶ百貨店人としての人生はこのそごう・西武のセブン&アイの完全子会社化で幕を閉じる。2007年5月17日、ミレニアムリテイリング傘下の主力店舗の改装がほぼ済んで経営が軌道に乗り始めると、自身の体調が万全ではないことを理由に、会長職およびセブン&アイHD取締役を退任した。
現在セブン&アイHDは、そごう・西武を2000億円以上で売り出しており、池袋進出を狙うヨドバシホールディングスと組んだフォートレス・インベストメント・グループが優先交渉権を得たが、そう簡単には決まりそうもないと言われている。
和田氏はその結論を知ることもなく、逝ってしまったということになる。1957年の西武百貨店入社以来の50年はセゾングループ総師の堤清二(故人)、そごうの天皇と呼ばれた水島廣雄(故人)、コンビニ文化を日本に誕生させたセブン&アイHDの鈴木敏文元会長など日本の1960年以降の流通業界のビッグボスが登場する歴史だった。
ひとつだけ言えるのは、和田氏が百貨店再建請負人として活躍し始めた1990年代以降日本の百貨店業界が明るい日陽しを一身に浴びたことはただの一度もないということだ。
こうして書いている最中にも、7月28日には山梨県甲府市の中心市街地にある山梨県唯一の百貨店である岡島百貨店が来年2月に閉店することが発表された。跡地には商業施設とマンションからなる複合ビルが建設されているという。岡島百貨店は店舗に入るテナントの一部を同市の中心市街地にある「ココリ」の地下1階から地上2階の3つのフロアに移転させる予定だという。規模は大幅に縮小され、これが岡島百貨店といえるものなのかどうか。これまでホームページで「山梨県唯一の百貨店として、絶対に閉店することはない」とコメントしていた同店なのだが。
和田繁明氏が人生を賭けて守り抜いて来た「百貨店」の灯がきちんと残れるのかどうか今後も注目したい。
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