デザイナー 高田賢三
Image by: FASHIONSNAP
インタビュー場所は、定宿だというパークハイアットのボードルーム。笑顔で迎えてくれた高田賢三は、喜寿を迎えたとは思えないほど若々しい体躯に、パリの店舗で仕立てているというサンローランのスーツが映える。1970年代にパリのモード界に影響を与え、最初に成功を収めた日本人で、華々しい実績を残し1999年に勇退。その後は世界中を回り、その才能を絵画などに生かしている。そんな"生きる伝説"が、新たに組んだ相手は日本の巨大流通企業セブン&アイ。約15年ぶりにトップデザイナーとして第一線に復帰した。近年のシンプルブームにカウンターを打つような「華やかじゃなきゃ、ファッションじゃない」というコピーと、高田賢三のデザインには欠かせない芍薬(しゃくやく)の花には、どんな意味が込められているのか。
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"花の9期生"は強者ぞろい、高田賢三の原点を振り返る
―まずは原点を振り返って頂きたく思います。ファッションに興味を持ったのはいつでしたか。
小さい頃から2人の姉に影響を受けて、中原淳一さんがイラストを描かれていた「ひまわり」や「それいゆ」といった雑誌を見ては絵を真似して描いていました。これがファッションに憧れを持ったきっかけですね。当時としては珍しく渡仏された時のことも載っていて、パリにも憧れを持ったのもこの頃からです。
―文化服装学院では後に「花の9期生」と呼ばれていますが、1950年代は洋裁の男子学生がまだ少なかった時期ですね。
洋裁学校に通いたくても入れなかったんですが、その思いは捨てきれなかったんですよ。地元神戸の大学に通う電車の中で「文化服装学院が男子学生の入学許可」というチラシを発見して、いてもたってもいられなくなって。でも両親には反対されてしまったので、夏休みにアルバイトをして上京し、東京の友達の下宿先に転がり込んでペンキ屋で働いて学費を貯めて、なんとか入学しました。それで2年目のデザイン科で一緒になったのが、コシノジュンコやニコルの松田光弘、ピンクハウスの金子功。もうすごい人たちばかりでしょう? ショックを受けましたね(笑)。でもライバルでありながら良き友達なので、人生において影響を受けています。
店の名は「JUNGLE JAP」
―渡仏してから1970年にパリでショーを開催したのは、日本人デザイナーとしては初めてでした。ちょうどパリがオートクチュールからプレタポルテに移行しはじめ、モード界が大きく動いていた時代ですね。
ショーといってもお金がなかったので、全て手作りだったんですよ。仲間にはずいぶん助けてもらいましたが、最初の店を作る時に自分でペンキでジャングルの絵を描きました。なので店とブランドの名前は「JUNGLE JAP(ジャングル ジャップ)」にしたんです。オープンする前には服と案内状を持って雑誌社に飛び込み営業をして、三富邦子にモデルとしてでてもらいました、小さなショーでしたが、自分たちにとっては大きなスタートになったと思っています。
―高田さんは、ショーで音楽を流した初めてのデザイナーとも言われていますね。
はは(笑)。楽しい雰囲気にしたくて、当時流行っていた曲をラジカセでかけたんです。偶然ですね。
―その頃のプレタポルテといえば合同展がメインだったかと思うので、いわゆる"パリコレ"の原型になったと言えます。
お金はないし名前も知られてないし、若かったので何をやっても怖いもの知らずだったんですよ(笑)。1971年に3ブランドで合同ショーをやったのも初めてで、その後にサンディカの会長から話を受けて、複数のブランドで同じ時期に同じ場所でやりましょうという形になった。それが後にパリのファッションウィークになったので、まさに夜明けのような時期でした。
迷いはなく、後先も考えず
―当時の「KENZO」ブランドの真骨頂といえばフォークロアをハイファッションに昇華した作風ですが、その原点はどこにあったのでしょうか。
僕は日本から船でパリに来たので、1ヶ月の船旅でインドやアフリカとか色々な国を周った時の印象が強く残っていました。それから1968年の五月革命とヒッピー。東欧のファッションをどんどん若い人が着るようになって、民族性をミックスしたフォークロアがとても面白かった。僕の場合、ちょっと行き過ぎな感じもあったんじゃないかな(笑)。
―でも、モードの歴史があるパリがそういったインパクトを受け入れたんですね。
珍しかったんだとは思います。その時代のチャンスに乗ることも大事ですが、僕は常に人がやっていないことをやろうと考えていましたから。特にパリに行ってからは、自分が日本人だということを改めて意識するようになって、それが強いアイデンティティーにもなった。今でも、可愛い物が好きなのはずっと変わりませんね。
―自身のブランドをLVMHに売却し、立ち上げから30年目の1999年に「KENZO」のデザイナーから退いた時のことについてお聞きしますが、迷いはありましたか。
迷いはなく、そして後先も考えずでした。ブランドを立ち上げてから30年間は楽しくもあり、一方で続けていく厳しさがあったのも事実です。でも、ブランドを離れてから2〜3年経った時に、やっぱり何かを始めたくなった。それでもう一度絵を描いたり、改めて勉強したり、また少しずつ始めるようになって今に至ります。
―Humberto Leon(ウンベルト・リオン)とCarol Lim(キャロル・リム)の若手2人がディレクションしている、今の「KENZO」ブランドはどのようにご覧になっていますか。
とても若返って元気があって、新しい感性を感じますね。時代に沿っていて良いコレクションだと思っています。
77歳、再び第一線へ
―セブン&アイ ホールディングスと新たなプロジェクトが始まりました。そごう・西武とイトーヨーカドーのプライベート ブランド「セットプルミエ(SEPT PREMIERES)」のデザインを手がけることになったのは、どういった経緯だったのでしょうか。
西武は70年代から先進的なファッションを取り扱っていて、僕もその頃からずいぶんお世話になっていました。そういった縁があったので、今回の話を頂いた時は嬉しかったですね。でも、大きなプロジェクトということで実は最初、すごく怖かったんです。
―これまでにない販路や、価格帯の低さといった、新しい服作りだったからでしょうか。
これは挑戦だと思いました。でも品質の良い商品を幅広い世代の方に着てもらうという「セットプルミエ」のコンセプトに惹かれたので引き受けさせて頂きました。デザインの切り出しは難しかったですが、協業なので相手方のノウハウを活かして、僕が持っている何かをそこにプラスできればと。今では自分も楽しい気持ちで取り組めています。
―「華やかじゃなきゃ、ファッションじゃない」というコピーや、芍薬(しゃくやく)の花のモチーフが印象的です。
やっぱり華やかな方が楽しくなりますよね。僕はコレクションに必ず花を使ってきて、一番好きなのが芍薬なんです。初めてクリエーションに取り組んだ時に選んだ花で、東洋と西洋、どちらの魅力も持っているでしょう?「セットプルミエ」ではシックなカラーに花柄を加えたり、アニマル柄を混ぜたり、フェミニンとマスキュリンのコントラストを出すようにして構成したので、色々な組み合わせができるようになっているかと思います。
ファッション界の変化 "どこに行っても同じ服"
―パリには半世紀にわたって居住していますが、ファッション界の変化を感じますか。
変わるものだとは思いますが、特に最近は変化が早過ぎますね。土曜日になると行列していた店も今はそんなことはなく、お店に出向く人が確実に少なくなっているのを感じています。
―ヨーロッパやアジアなど様々な国に行かれていますが、世界のファッションについてはどのように見ていますか。
以前はその国や街に行って、現地ならではのファッション見るのが面白かった。でも今、そういった面白味が無くなってしまって残念なんです。どこにいっても同じ服、同じファッションのように見えてしまう。
―日本や東京もそうかもしれません。
でも先日、新進デザイナーで才能あるなと感じたのが、松重健太さんが作った服でした。日本のアイデンティティーを構築的なデザインに落とし込んでいて。そういった若手がどんどん飛び出すような環境を作らないといけないなと思いましたね。
日本は桜だけではない、芍薬に込めた意味
―東京では2020年にオリンピックが控えているので、若手も含めてデザイナーが世界の舞台に関わっていく機会が増えていくかと思います。高田さんは2004年のアテネオリンピックで日本選手団公式服装をデザインしていますね。
ユニフォームのデザインて、本当に難しいんですよ。特にオリンピックの場合は様々なアスリートの選手がいますから、その人らしい個性を出せるような「ユニフォームらしくないユニフォーム」をテーマに作りました。帽子の裏側をカラフルにしたりね。あとアテネは暑い国でしょう? だからうちわも一緒に作ったんです。
―その時のモチーフも芍薬でしたね。
でも最初は桜にしようかとも考えたんですよ。制作は「ユニクロ」を運営しているファーストリテイリングだったんですが、その時に柳井さんに言われた事を覚えています。「日本は富士山や桜だけじゃないですよね」と。
―若手のデザイナーやクリエーターにアドバイスやメッセージを頂けますか。
若い方には、思い切り大きな夢を持ってもらいたいです。夢に向かって努力、それだけだと思います。自分の目的をはっきり持って邁進してください。
―最後に、ご自身のヴィジョンをお聞かせください。
今回のセブン&アイとの仕事は、自分にとって刺激になり過ぎるくらい刺激的で(笑)。これからも少しずつ、新しい事をしていこうと思っています。クリエイターやアーティストといった若い方々とつながりや交流を持って、お互いに刺激し合いながら、また成長していけたら嬉しいですね。
高田賢三
Kenzo Takada
1939年 兵庫県生まれ。文化服装学院で服飾デザインを学び、1960年第8回装苑賞受賞。その後1964年に渡仏。
1970年 パリにブティックを開き、ブランド"JUNGLE JAP"として初コレクションを発表。パリの伝統的なクチュールに対し、日本人としての感性を駆使した新しい発想のコレクションが評判を呼ぶ。その後ブランド名を「KENZO」とし、高い評価を受ける。
1984年 仏政府より国家功労賞「シュヴァリエ・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章(シュヴァリエ位)受章。
1993年 ブランドをLVMHに売却。自身はデザイナーとしてクリエーション活動を継続。
1998年 仏政府より国家功労章「コマンドゥール・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章最高位の(コマンドゥール位)受賞。
1999年 紫綬褒章を受章。NY国連平和賞ファッション賞を受賞。「KENZO」のデザイナーを退く。
2004年 パリ高位勲章「パリ市大金章」受章 。アテネオリンピック日本選手団公式服装をデザイン。
2016年 仏政府より「レジオン・ドヌール勲章」名誉軍団国家勲章(シュヴァリエ位)を受賞。
>>デザイナー高田賢三が逝去 新型コロナにより半月にわたり闘病
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