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「ナイキ エア」誕生の歴史を辿る ワッフルソールから空気を可視化するまで

エア マックス Dn

エア マックス Dn

Image by: NIKE

エア マックス Dn

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「ナイキ エア」誕生の歴史を辿る ワッフルソールから空気を可視化するまで

エア マックス Dn

エア マックス Dn

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 空気とは、人類が暮らしている中で身の回りにある、無色透明の気体である。今でこそ人は、空気を汚さない、つまり環境を守るためにさまざまな工夫をしたり、空気清浄機を日々の生活で使ったりと、空気が身近にあることを実感しているものの、今から50年前に人々はその存在をどれだけ意識していただろうか。

 「ナイキ(NIKE)」は1972年の設立以来、スポーツの未来をデザインし続けている。体があれば、誰もがアスリート。そのすべての人たちにインスピレーションと革新をもたらすことをミッションに、多くの発明を生み出してきた。その一つが「ナイキ エア(Nike Air)」。つまりは空気。目に見えない気体を形にして、スポーツの世界にインパクトを与えてきたのだ。誰もが想像もしなかったであろう、空気(エア)をアスリートのパワーに変換することを愚直に今も続けている。そして今年、ナイキ エアはこれまでにない見た目と履き心地のシューズを作り出した。「エア マックス Dn(Air Max Dn)」だ。本作に初めて採用されるダイナミック エアについて理解する前に、まずはナイキとエアの関係を知ると、この新感覚をより享受することができるだろう。

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「エア」開発以前、1970年代のワッフルソール

 1972年、大胆な起業家だったランナーのフィル・ナイトはオレゴン大学時代の陸上コーチだったビル・バウワーマンとともにナイキをスタートさせた。常にアスリートのために実験と検証を繰り返す二人のモチベーションが受け継がれ、現在に至るまでシューズは進化を続けている。

 それまでのランニングシューズは、基本的な保護と最小限のサポートの中で、いかに足の形に合わせること、そして軽量化することを目的にデザインされてきたが、ナイキが着目したのはクッションだった。バウワーマンは舗装路で走ることの多いアメリカの道路環境下において、アスリートの足を守るために軟らかいソールが必要だと考えていた(当時のシューズのソールはゴム製でとても硬かった)。

ナイキのスニーカー

コルテッツ

Image by: NIKE

 ナイキの初期を象徴するコルテッツは、つま先から踵までスポンジ入りのミッドソールを搭載した高いクッション性が注目された。そうして間もなく有名な「ワッフルソール」が誕生した。「オレゴンワッフル」や「ワッフルトレーナー」に搭載される「ワッフルソール」は、バウワーマンが朝食を作るためのワッフル焼き器をヒントに、アウトソールのゴム材を形に流し込むことで完成した物語のような作品だ。これはソールの凹凸が悪路に対してマイルドなグリップが得られると目論んだものだったが、じつはその突起がクッションに有効であることがわかり、長く愛されるテクノロジーとなった。やがてミッドソールは硬質なスポンジにとって変わり、合成樹脂のEVA素材が採用されるようになった。ポリエチレンと比べても軽くて柔らかく、弾力性に優れたEVAは、ナイキに限らずスポーツメーカーにとって次第に当たり前の存在になっていった。1970年半ばを過ぎた頃の話である。

航空宇宙エンジニアの売り込みがきっかけ?ナイキ エア誕生秘話

 1925年にオハイオ州で生まれたマリオン・フランクリン・ルーディは、NASAの責任者とともに働くような優れた航空宇宙エンジニアとしてキャリアを積んだが、自身の数々の発明を宇宙のためではなく、私たちの住む地球のさまざまな場所で活かすことを目的にNASAを離れ、自身で活動をするようになった。端的にいえば彼はスポーツシューズのソールを空気にして、衝撃を和らげるアイデアを各社に提案したが、それが斬新すぎたのかどこにも受け入られなかったという。

マリオン・フランクリン・ルーディ

マリオン・フランクリン・ルーディ

Image by: NIKE

 1977年、23社目に訪れたナイキは、初めてその発想に興味をもった会社だった。バウワーマンとフィル・ナイトは早速ルーディが用意した空気入りの試作シューズを着用してみたところ、耐久性などの観点からそれが理想ではないが可能性を感じたという。ナイキはミッドソールの中に空気のバッグを埋めることで、その問題を解決しようとした。そうしてルーディの持ち込みからわずか1年程度で、初めてのナイキ エア入りのシューズが完成したのだった。ナイキは250足のシューズを1978年のホノルルマラソンに向け、ハワイの6つのランニングストアに送った。モデル名はメンズが「テイルウィンド(tailwind)」で、ウィメンズが「テンペスト(tempest)」。それぞれが「追い風」や「大騒ぎ」という意味から察するに、それがいかにナイキを興奮させる出来事だったかが想像できるだろう。

ナイキのスニーカー

テイルウィンド

Image by: NIKE

「見えるエア」への進化 新しいものを欲しがる世の中への刺激

 しかし、この段階ではまだエアはエア マックス Dnのように、その存在を可視化することはなかった。昔も今も、モデル名に「エア」が入っているシューズにはもちろんエアが搭載されているのだが、目に見えるものとそうでないものがある。

ナイキのスニーカーに搭載されたエア

テイルウィンドに搭載されたエア

Image by: NIKE

 例えば「テイルウィンド」の誕生から数年後に生まれた「エア フォース1(1982年)」や「エア ジョーダン1(1985年)」といったバスケットボールシューズも、エアはミッドソールの中にあり、目には見えない。これらは確かに新しいクッショニング性能を提供したが、こと1980年代のアメリカは実用的な享受よりもファンタジーを欲深く求めていた。コンピューターが新興し、車産業が発展し、都市部から郊外にまでエンターテインメントが浸透したこの頃、「E.T」や「バック・トゥ・ザ・フィーチャー」といったSF映画がヒットし、空を飛んだり過去に戻ったり、現実にはない未来を求めるようになったのは、時代の象徴的なパラダイムだった。こうした価値観は、ファッションやアートやスポーツの世界にも同じように広まっていて、その変化を敏感にナイキは読み取っていたのだ。創業以来、シューズの進化に対して実直に向き合ってきたナイキも、その広告的な表現方法やマーケティングにも力を入れていたからか、自分たちの努力とアイデアを刺激的に見せることに対して、自然に向き合えていたのかもしれない。

 ナイキのデザイナー、ティンカー・ハットフィールドはかつて「80年代中頃は形式張った階級制度から、もっとゆるいストリートをベースにしたインスピレーションを大事にする時代への移行期でした。ナイキの中でも私たちはその流れを受けており、私はたまたま誰よりも早くフットウェアデザイナーとしてこの変化に乗っていたと言えます」と当時を回想していた。新しいものを欲しがる世の中にスポーツシューズは何を提供すべきか。その答えが「ビジブル エア(visible air、見えるエア)」という選択だった。

 ビジブル エアは研究の過程によって育まれたアイデアであり、現代でいうところの単なる「映え」のためのデザインではない。努力を繰り返すことで、エアのバッグをミッドソールの中に収める以上の大きさを作れるようになったことは、肥大化したエアを逃し、より高い衝撃吸収性をもたらすことができるメリットが生まれる。しかも機能を視覚化することで、プロダクトそのものが広告的に機能することができるのだ。

ビジブル エアを搭載したエア マックス

ビジブル エアを搭載したエア マックス

Image by: NIKE

 前述したティンカー・ハットフィールドは、建築家出身のデザイナーであることも影響し、パリのジョルジュ・ポンピドゥ国立芸術センターにインスピレーションを得たスポーツシューズをデザインした。本来は外に見せ(るべきで)ない建物の構造を露わにしたことで、横並びが整うパリの歴史的建造物、ひいてはヨーロッパの美観を損なうと批判されたこの奇抜の文化施設になぜ影響を受けたのか。それは新しい創造によって既存の価値観を破壊するという、強い意志やモチベーションに惹かれたのではないだろうか。ジョギングやランニングを楽しむすべてのアスリートのためにナイキは新しいランニングスタイルを提供したい、その願いの結実が1987年に誕生した「エア マックス(Air Max)」だったのだった。

開発の背景にある天才ランナーとの約束

 スポーツシューズが文化的な価値と結びつき、社会への発信を強めていく。エアに見るこうしたナイキの挑戦的な姿勢は、アスリートのモチベーションに繋がっている。そしてその挑戦的な姿勢は、アスリートから学んだものだった。

 生まれたばかりのナイキには、企業として初めて契約したスティーブ・プリフォンテーン(1951-1975)というランナーがいた。プリの愛称で知られたこのランナーは、アメリカのトラック記録を14回更新し、オリンピックにも出場する並外れた才能をもっていたが、どんな小さなレースでも命をかけて走る戦士のような性格とカリスマ性を持っていた。レースの戦術も大胆で、観るものを惹きつける野生の魅力に溢れていたのだ。

 1970年代の中頃になると、戦争を終えて明るい自由が訪れたアメリカに空前のジョギングブームが訪れたが、それまでは決して「走る」という行為は注目を浴びるスポーツではなかった。そんな中、プリは初めてランニングをクールなことに変えたランナーでもあった。昨日より今日、今日よりも明日。現状に満足することなく、前を見続けたプリにナイキは応えてきた。プリは24歳の若さでこの世を去ってしまったため、深いリレーションはわずか3年ほどだったが、小さな窓から覗かせたエアが今日まで進化しているのは、変わらない思いがあるからだろう。

エア マックス Dnのイラスト

エア マックス Dn

Image by: NIKE

感じることの大切さ

 今年発売された最新のエア マックス Dnは、4つのチューブ上のエア バッグから構成されている。これは一歩進むごとに身体の重さがエア バッグに反応し、スムーズな足の運びを効率的に提供するために考え抜かれた「ダイナミックモーション」という構造だ。そのためにエア バッグ内の前後で気圧を変えるなどの細かい工夫がされている。毎年のように姿を変えて発表されるエア マックスだが、今年はとくに感じ方、つまり履き心地に重点が置かれたデザインだ。我々は現在、ソーシャルネットワークの世界でも長い時間を生きている。だからこそ目に見える刺激は大切だ。しかし本来はスポーツシューズにおいては進化を感じること。その原点に向かってを改めて目を向けた、エアの進化を感じてみてはどうだろうか。

ライター/制作プロダクション MANUSKRIPT代表

小澤匡行

Masayuki Ozawa

1978年生まれ、千葉県出身。大学在学中に1年間のアメリカ留学を経たのちに編集、ライター活動をスタート。著作に「東京スニーカー史」(立東舎)、「1995年のエア マックス」(中央公論新社)など。「UOMO」(集英社)、朝日新聞にてコラムも執筆中。集英社主催による藤原ヒロシのマーケティング講座「FRAGMENT UNIVERSITY」の助教授を務める。

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