「エア マックス」の29周年を前にした3月、米国ポートランドのナイキ本社で「エア マックス」の原点とも言えるモデル「エア マックス ゼロ」が発表された。世界から集められた十数名のプレスを前にプレゼンテーションを行ったのはデザイナーのティンカー・ハットフィールド(Tinker Hatfield)。「エア マックス」の生みの親で「エア マックス ゼロ」の原案を描いた人物だ。自らを"フューチャリスト"と語るティンカー・ハットフィールドは、なぜ今原点に戻るのか?誕生から29年目を迎える「エア マックス」の誕生とスニーカーのこれからについてハットフィールドに聞いた。
「エア マックス」の生みの親ティンカー・ハットフィールドとは?
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―出身はどちらでしょうか?
ナイキの本社があるポートランドから16キロ離れた都市ヒルズボロで1952年に生まれました。ユージーンの近くで育ち、今もポートランドで働いるのでずっとオレゴンに住んでいます。陸上の奨学金を受けるかたちでオレゴン大学に進学し、建築を専攻しました。陸上では「ナイキ」の生みの親ビル・バウワーマン(Bill Bowerman)コーチに師事し、棒高跳びをやっていました。
―ナイキに入社したきっかけは?
卒業後はセミプロ選手としての競技生活を経て、ユージーンの建築会社でインターンとして働き始めました。給料が高くなかったので、インターンをしていた3年間はなんとかしのいでいましたね。それから、ビル・バウワーマン コーチの指導を受けていた縁から、彼のシューズラボを手伝うことになり靴作りを学びはじめました。ビル・バウワーマン コーチが生んだ新しいシューズをテストするのに私がよく選ばれていましたので、卒業後もビル・バウワーマン コーチとの交流は続いてたんです。そういった流れから、1981年に「ナイキ」専属の"建築家"として入社することになりました。
―建築家からプロダクトデザイナーに転身したのはなぜでしょうか?
建築家としていろいろとクレイジーな建物を作っていたので、私のことをクリエイティブだと思った人がいたようです。「異なる背景を持った人がプロダクトデザイン部門にいてもいいんじゃないか」ということでしょう。オレゴン大学の建築の教え方は人にフォーカスし、どのようなニーズがあるか、何が望まれているのかを考えることが最優先されていました。人のためにデザインをするというのは建築だけに限らないと思います。
―これまで手掛けてきたプロダクトは?
有名なもの有名じゃないものありますが、「エア ジョーダン」や「ハラチ」、「ソックレーサー」などを作ってきました。なかでも「エア マックス」は、最も画期的なプロダクトだと自負しています。
なぜ「エア マックス ゼロ」製品化に29年必要だったのか?
―「エア マックス」をデザインする事になったきっかけは?
もともと、「ナイキ エア」は1978年にナイキ テイルウインドに初めて搭載されたクッショニング・テクノロジーでした。このテクノロジーをもっと馴染みのあるものにデザインすることが私の仕事でした。そんな頃、ちょうどパリのポンピドゥセンターに訪れ、内側の構造が外から丸見えになっている構造に衝撃を受けました。これをシューズに落とし込み、エアバックを大きくして、ミッドソールくらいに広げ、しっかりと見えるようにすればテクノロジーを可視化できるのでは、と思い帰国してすぐにデザイン画におこし、4〜5枚のスケッチにまとめてCEOであるマーク・パーカーに提出しました。
Image by: NIKE
―反応はどうでしたか?
マークをはじめ当時の経営陣から大変好評でしたが、「あまりにも革新すぎる。無理しすぎると誰にも分かってもらえない靴になってしまうのではないか」という懸念から、アッパーは置いておいてミッドソールの新しさにもっとフォーカスしようということで皆さんもご存知の「エア マックス 1」が誕生しました。私もこの決断には納得でしたし、当時の「エア マックス 1」も十分画期的なプロダクトでしたから。
―「エア マックス ゼロ」が生まれた経緯は?
今年で2年目になるエア マックス デイを前に、ナイキ・アーカイブ部門に眠っていたスケッチがナイキスポーツウエアのデザインチームによって発見されたんです。当時私が「ナイキ エア」について話しているビデオとスケッチを持ってきて、「これを再現したい」と言われました。関心を持ってくれていて大変嬉しかったので、このシューズのストーリーや着想を伝えました。
―完成品を見た感想は?
結果的にとても良い形でシューズが蘇ったと思っています。スケッチととても似ていますが、シューズとしての機能はレベルアップしています。「ハラチ」や「ソックレーサー」の要素も感じられるので、今思えば当時の私の頭の中にそういったアイディアがあったのかもしれません(笑)。それに、当時使われていなかった素材やテクノロジーが存分に使われていて、今だからこそ形にできた「エア マックス」に仕上げてくれて私自身とても満足しています。
ティンカーが思い描くスニーカーの未来
―「エア マックス」が生まれて今年で29年。現在、世界的に巻き起こっている"スニーカーブーム"についてどう思いますか?
とてもクレイジーですね(笑)。どうしてこうなったか分からないですが、スニーカーを欲しいと思う人が増えていることは個人的にはとても嬉しいことです。「エア マックス」に関しても通常このくらい古いデザインになれば勢いが色褪せるものですが、前にも増して人気が出ている。冬にパリを訪れましたが、すごくおしゃれな人達が「エア マックス 1」を履いているのを見て、ポンピドゥセンターに着想を得て生まれたランニングシューズがハイファッションに受け入れられ、パリでも履かれているということに驚きましたし、感動しました。
―スニーカーに求められるものは?
私の仕事は"フューチャリスト"のようなもので、未来を考えるという要素が大きいんです。これまでもそうですが、先の10年後を考えながらデザインを生み出していくという姿勢で続けてきました。スニーカーカルチャーが途絶えるという事はないと思いますし、新しくてクールなプロダクトが求められ続けるでしょう。一方で私たちは新しい素材やイノベーションを探求し続け、これからも色々な人に受け入れられるようなもっと良いモノ作りが求められると思っています。
―ティンカーが思い描く"理想のスニーカー"とは?
私は単に屈曲性があり、軽いだけではなく、存在感を感じさせないようなスニーカー作りをこの先のゴールにしています。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の構想と似ていますが、例えばスポーツをしている時には反発性があり、ストリートで友達と履いている時にはリラックスしたフィットになるように、行動に合わせて自動的にフィッティングが変わるシューズが理想ですね。
―"理想のスニーカー"の完成の目処はたっていますか?
残念ながら、今はまだあまりたくさんのことが言えないのです。いつまでにできるかもまだまだ未定の段階です。ただ、本当にすごく難しいプロジェクトではありますが、心から楽しんで取り組んでいますよ。
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