鈴木正文
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話題は「資本論」のカール・マルクスから村上春樹、エディ・スリマン(Hedi Slimane)まで。「有吉ジャポン」や「サンデー・ジャポン」(TBS系)にレギュラー出演していたこともあり、日本で最も著名なファッション誌の編集者の一人である鈴木正文氏。混沌の2022年、GQ JAPAN編集長を退任して同氏は今何を思うのか?
鈴木正文
1949年東京生まれ。1983年、二玄社に入社後、自動車雑誌「NAVI」の創刊に携わり、1989年に編集長に就任。1999年、「ENGINE」の初代編集長となる。その後2012年、GQ JAPAN編集長に就任。2021年12月に同職を退任した。
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良い編集者とは?メディアのあるべき姿
ーコンデナスト・ジャパンはいつ退社されたんですか?
2021年12月の末日です。2011年10月からなので、かれこれ10年GQ JAPANの編集長をしていました。
ー「NAVI」「ENGINE」「GQ JAPAN」と3つの媒体で30年強にわたり編集長の役割を担ってきた鈴木さんですが、どの媒体でも掲載される全ての原稿をチェックしていたとか。
編集長ですから。デジタルが登場してからは、紙の誌面だけではなく、ウェブも含めてすべて確認してから掲載していました。
ー企画のブレスト段階からチェックしたりも?
もちろん。テキストだけではなくヴィジュアル案も含め確認していました。まあ計画通りにいくことばかりじゃもちろんなかったけれど。
ー紙とデジタルでコンテンツの作り方に違いはありましたか?
紙は2ページの見開きごとに考える。雑誌を開いた時に漠然と見開きが視野に入るから、読者がどう視点をずらしていくのかを考えて作っていました。あとはタイトルと切り口。現代国語の試験であれば、問題文を読んで次のうちどれが良いタイトルですか、といった選択問題があるけれど、正解は文の内容をもっともよく表したタイトルと決まっています。しかし、記事の場合は、そういうタイトルをつけちゃダメだと思います。中身を要約したものはタイトルとしてふさわしくありません。記事を読みたくなるようなタイトルであることがいちばん大事ですから。そのほかにもどういう写真をどう使おうと考えているのか、とか、そういうことを含めて現場の編集者たちと話をしながら雑誌を作り上げていましたね。もちろんデジタルでも同様といえば同様ですが、ただ写真に関しては、紙ほど文字との相互関係が緊密ではありませんね。ギャラリーで見せるとか、の手法がありますから。ですので、ヘッドフォト、リードフォトをどうするのか、くらいのことを決める、という感じでした。いずれにしても、誰のために、何のために作る記事なのかっていうのを考えるのが大事。写真も含めて何を見せようとしているのか、どんな意図があるのか、ということですね。
ーGQのEDITOR’S LETTERで「良い編集者は良い書き手」ということを書かれていました。ただ実際には、紙媒体の編集者はライティングをしていない人の方が多いですよね。
さて、そんなことを書いていたかなあ?記憶にはないのですが。ともあれ、僕ほど多く原稿を書く編集者は、昔はともかく、最近はほとんどいないように思います。GQで書いていたEDITOR’S LETTERのような独立したコラムとしても読めることを意識した文章を編集長が自ら書く、というのもあまり例がないと思います。ただ、新聞社では記者が執筆と編集を同時に担っていることがしばしばですし、昔は記者が写真も撮っていましたね。
ー特に日本のファッションメディアの編集者は、自分の意見を述べたりすることが少ない印象があります。
そうかもしれません。雑誌は編集者の考えに基づいて作られているわけですから、その人に考えがないってなると、本当のところ、どうしようもない。
ーさらにウェブでは右から左に流しているだけの記事が目立ちます。
そんな感じもありますね。新聞であれば「ベタ記事」とでもいうのでしょうか。リリースをほぼそのまま流したり、警察の発表や自民党の幹事長が言ったことをほぼそのままなぞったり、という。読売新聞が大阪府と包括協定を結んだというニュースがあったけど、ああいうのは、どうなんでしょうか。大阪府という行政機構の代理人にならないことを願うばかりです。ウェブであっても紙であっても、メディアであることに変わりはありません。時代の多様な声を発信していってほしいですね。
話を戻せば、Webでもプリントでも、クライアントからこれを載せてほしいというかたちで送られてくる無償のプレスリリースをストレートに記事にしてしまう場合は多いように思います。ただ、それでは編集者の存在理由が問われます。たといタイアップ記事であったとしても、編集者が介在しているのなら、その商品ならその商品、そのイベントならそのイベントについての編集者としてのアイデアが問われるはず。もちろん、ファッション・メディアにとっては、ファッション・クライアントは、大事な同僚みたいなものですから、基本的には仲間として可能な限り優しく接することを旨としていましたが、仲間だからこそ、先方のオーダーにただ応えるだけではなく、より良いやり方を考えないといけません。ヴィジュアルはこういう方がいいんじゃないかとか、そういう提案をしないとそのメディアに載せる意味はありませんから。メディアが抱える読者に届けることがプロモーションの目的なわけだから、どうやったらちゃんと届けられるかってことを考えないと。
ーあくまでも読者やユーザーを第一に考えているわけですね。
読者がいないと媒体は成立しません。クライアント第一ではどうしようもない。もちろんクライアントも読者にはなり得るけれど。読者は雑誌全体のテイストやウェブの空間も含めて、デザインが好きだとか、書かれている内容が好きだとか、そういうものがないと読まない。例えば「ナイキ(NIKE)」のスニーカーの事を知りたいだけなら、公式サイトを見れば良いわけだから。リリースの謳い文句をそのまま載せているだけだったら「PR TIMES」(プレスリリース配信のプラットフォーム)でいいじゃんとなってしまう。
ー一個人として、メディアは視点という“気付き”を与えることが役割の一つだと考えています。
同意します。誰にも視点はあり、メディアにも視点はある。ただ、メディアが自分の「視点」を、たとえば、大人が子どもにキャンディーを与えるように与えることはできません。「視点」は、飴のように自己完結した閉じた実体のようには手渡せない。それぞれの、他に代えがたい人生を生きている人が受け手ですから。ただ、ある種の“気付き”の媒介になることはできるはずです。
ー執筆時に気をつけていることはありますか?
分かるように書くというのが大事なことでしょうね。他者にしっかり伝えることができないことは、自身もよく理解できていないということですから、じぶんの理解の深さが試される。あと僕は客観的な評論がしたいわけじゃないから、評論家みたいなことを書こうとは思わない。
ーなぜ評論に興味がないんですか?
例えばロシアがウクライナを攻撃しました、それで株価がいくら下がりました、でもこれからある分野で儲ける人が出てくるでしょう、と言うのが評論家。それはただの、根拠があったりなかったりする予測のひとつです。当たるかどうかわからないし、その「評論」を知った人の心の大事なところには届かない。羽生結弦選手は北京五輪の時にジャンプでつまずいたけど、それがなければ四回転半行けたかもですね、と解説者は言いますが、だからなんなのって。そうかもしれないし、そうでないかもしれない、というだけのことです。基本的で専門的な情報をかみくだいて知らせることに意味はありますが、羽生選手がつまずいたことを、なにかの、どこでも触れることのできる人生訓や処世術のようなものに敷衍したり還元したりするという「評論」的スタンスは好きじゃないですね。彼のつまずきを見て、もし、自分が彼で、自分がつまずいたのなら、と考えたときに何を言えるのか、ということが問題だと思います。北京の冬季オリンピックに関連して、高梨沙羅選手(※)の「失格」については僕の想いをnoteに書いたけど、それは、彼女があんな痛切な告白をすることの意味を、自分の問題として考えてみたかったからなので、「評論」ではない、と思っています。ウクライナとロシアの戦争の「落としどころ」について、戦争当事者でもないのに、あたかも戦争当事者であるかのような顔をして云々する人がいるけれど、それにいったいどんな意味があるのでしょう。自分がロシア兵やその家族であったら、あるいはウクライナの国民であったら、というように、戦争当事者への想像力をどこまで届かせることができるか、ということのほうが大事なことで、そのこととの関係で、戦争の「落としどころ」なるものを考えるべきだと思います。
※高梨沙羅選手は北京五輪の新種目「ノルディックスキージャンプ・混合団体」の1回目、日本の1人目を飛んだ際に100メートルを超える大ジャンプを記録したが、着用スーツが規定違反で失格となった。
最近、よく耳にする「親ガチャ」という言葉も、なんか好きになれないですね。そんなこと言い出したらみんなそうだよと。キエフで怯えている人はそこに生まれたというだけだし、それは東日本大震災の被災地に住まれていた方もそうで、全部ガチャになってしまう。人生はそこら辺の道端で蹴躓いても変わるわけですよ。転んで頭を打って死んでしまうかもしれないし、車に撥ねられて車椅子生活者になるかもしれない。轢かれなかったら、ホリエモン(堀江貴文)みたいなお金持ちになるということがあるかもしれない。けれど、それが良いとも限らないし、悪いとも限らない。高梨選手が金メダルを取っていたらある人の人生は変わったかもだが、そこに良いも悪いもない。誰の人生にも代えられないその人の人生が、あるだけです。
いずれにせよ、文章は、その結論や内容もさることながら、読むプロセスを楽しめるテキストであることが大事だと思う。文や写真は、主張の善悪というよりも、ある着眼点のもとで作られたそれらが、読んだり見たりする人にとって、なんらかの値打ちがあるものであるかどうかが大切だと考えています。
ーこの考えが鈴木さんの表現のベースになっているように感じました。
表現の仕方を含めてメディアの性格が決まるわけで、それは服の着方の問題と同じ。同じものを買っても着方でその人の個性が出るわけです。もちろん、誰もが通念の通りの着方をしないといけないわけじゃない。間違えてこんなふうに着てしまったというのもいいし、それも経験だけれど、どうせ間違えるのなら、ある意図をもってあえて間違えるほうが、より豊かな経験になる。
新生GQ JAPANに期待することは?
ー鈴木さんはGQ時代、部下たちを説教することもあったんですか?
説教はしょっちゅうしていたんじゃない?今いる編集の人たちに聞いてみて(笑)。
ー多様な意見を尊重する鈴木さんなら、ご自身の意見を押し通すということはしないんじゃないかと思ったんですが。
自分で言えないことをも言おうとして、ま、その意欲はいいのだけれど、結果として、わからない言い方になっている、ということは原稿でもよくあることで、編集者からチェック用に提出された原稿を読んでよく理解できないところにぶつかると、「これどういう意味?」と聞きます。外部のライターの人の原稿でも「ここがわかりません」という疑問を入れて戻します。
ー自分の文体に直すことは?
しませんね。やむをえず、書いた人の了解を得て表現を直すことはありますが、その場合は、書き手の書き方を基本的には尊重します。
ー考えや意見を否定する赤入れはしないんですか?
性差別だったりジェンダー差別だったりする意見や排外主義的なナショナリズムについては、もちろん否定する。でも、赤字を入れるというよりは、載せない。例えば、僕が編集長をしているうちは、「朝鮮人」がどうだとかの反韓的なネタは載せませんでした。「多様性を尊重していないじゃないか」と言われるかもしれませんが、その種のヘイト的主張は多様な意見には入りません、許されざる差別です、というのが僕の考え。ある種の人を差別せよ、ある種の人については人権を否定せよ、ということを主張する自由はないと思う。だから、そういう思想を持っている人については、僕が編集長をしているメディアの誌面にはご登場いただきませんでした。
ー鈴木さんの退任にあわせてGQ JAPANは編集長のポジションを廃止し、後任の新堀哲さんはヘッド・オブ・エディトリアル・コンテント(Head of Editorial Content)という肩書きになりました。
それがコンデナスト社のグローバルな方針になった、ということですね。
ー鈴木さんは編集長の仕事は何だと思いますか?
色んなスタイルがあるから一概に「こうだ」とは言えない。表紙しかチェックしない人もいるし、原稿を読まないし、書かない人もいますから。
ー鈴木さんはどういったモチベーションで、全てのコンテンツをチェックするという膨大な仕事をずっと続けてきたんですか?
読者から何か言われた際、「それについてこういうわけだ」と言えないものが自分が編集責任をとっている雑誌に載るのは嫌だから(笑)。でも僕みたいに書きもするし、全部に目を通してもいる編集長は、他にもいるんじゃない?
ー新堀さんに期待していることは?
ともかく、頑張っていただきたい。
人の価値は誰が決めるのか?
ー読書家と伺いましたが、好きな本は何ですか?
沢山ありますよ。好みは時期によっても違います。ただ共通して古典は大体良い。古いけどいつでも新しい。
ー新しさとは前衛的であるかどうかですか?
アバンギャルドかどうかはあまり関係ないですね。音楽で例えるなら、アレンジで演奏されたりはあるかもしれないけど、上書きはされない曲。上書きされないということはいつでも「新しい」ということです。Apple WatchやiPhoneなんかは上書きされるから、最新のものでなければ新しくはないと思う。上書きされて古くなってしまったものは、デッドテックとして、化石としての意味は持つかもしれないけれど、それは古典のように、「いま」も生きているから「新しい」、というものではない。ドストエフスキーの「罪と罰」は今読んでも新しいし、カール・マルクスの「資本論」だってそう。村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」の原作になった短編集の「女がいない男たち」も、きっと古典になるでしょう。テーマが新しいとは言えないかもしれないけれど、さりとて古くもない。三角関係と簡単に言ってしまうのもなんだけど、「トリスタンとイゾルデ」も夏目漱石の「こころ」も、三角関係をめぐるストーリーです。古くもあり新しくもある古典です。メタバースでの経験はたしかに「新しい」とは言えるでしょうが、だからといって、子どもの頃初めて海を泳いだ経験よりも、時代的な「新しさ」ゆえに価値がより高いとはいえない。ちなみに、「ドライブ・マイ・カー」は映画を観てきたのでnoteに何か書こうと思っているんだけど、締め切りがないからかまだ書けていなくて(笑)。
ーちなみに「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」は新しい?
ギャルソンは新しい、というか、吉本隆明的に言えば、「世界を凍りつかせるおそろしいことば」を、ときに発する。「世界を凍りつかせるおそろしいことば」というのは、吉本にいわせれば、「詩」です。ギャルソンの服は、「ああ、この服は、こういう服だ」とか「ああいう服だ」とかの、ふつうに人々が抱いている「服」の観念に回収しきれないという意味で、いわゆる「服」以上のなにか、です。パンクだとかロックだとかモッズだとかグランジだとかグラムだとかクラシックだとかストリートだとか、そういう分類になじまない。それは一種の詩的言語だと思う。たとえば、小林秀雄が訳したランボオの「永遠」という詩は、「また見附かつた,/何が、永遠が/海と溶け合ふ太陽が」というふうにはじまるけど、ここでは「永遠」があった、それは「海と溶け合ふ太陽」だと言われている。「永遠」を直に見た、と言うんですね。暗喩といえばそうだけど、でも、そういう言い方では、この詩で言われている「永遠」の直接性というものを感得できない。それは「海と溶け合ふ太陽」のようなのかもしれないが、「海と溶け合ふ太陽」に、「永遠」がむきだしでヌッと出現していた、という感覚のほうが近い。ギャルソンの服は、暗喩めいていて、そんな意味で「服」というより「詩」。それがどんな「詩」であるか、「世界を凍りつかせる」真実の「おそろしいことば」かどうか、それは見る人が考える。いずれにしても、服になると話が難しくなるからめんどくさい(笑)。
ー興味深い話になりそうなのでお手数でなければ(笑)。
作っている人がどう考えているかにもよるよね。縄文時代の日本人は赤土を体に塗りつけて裸足で歩き回っていたらしいけど、赤土はさ、それは服なんだよ。それが黒い土でもね。
ギャルソンの最新シーズンのコレクションは新しいんだけど、ああいうものって特別なイノベーションは起きていなくて、世界に対して“ギャルソンの新作”という呪いをかけているんだと思う。原始の人たちのふんどしや耳飾りも、世界に対抗するために、世界に呪いをかけている。ワシをアダやおろそかにしたら報いがあるぞ、と。そうして、暗黒の世界にたいする恐怖を克服する。服は、根源的にはそういうもので、だから縄文人が裸に塗りたくった赤土は服であった、と。世界への対抗だから。そういうものだと解釈すると、服はどれも、多かれ少なかれ呪術的なものだと思う。
じゃあどうやって世界に呪いをかけるかっていうと、川久保さんには川久保さんのやり方がある。「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」のヨウジ(山本耀司)さんにもヨウジさんの考えがある。けど、そういうことを考えたことがないデザイナーもいるわけです。単に新しいものを作ろうとしている「ファッションデザイナー」もいる。けれど、本人がどう思おうと、ファッションは世界への呪いのことばであり、ことばとしてみれば、すぐれた詩になるものも、その中にはある。......ファッションを語ることは難しいな。
ー森羅万象、世界は相対主義だと思うんですが、特に若い人たちは絶対的な価値を求めてしまう傾向があるように思いませんか?
マルクスに言わせると、モノの価値には「使用価値」と「交換価値」の2つがあると。例えば、コップは液体を留めておくことができ、任意の量を飲むことを可能にする、これがコップの使用価値。人体を守る服もそうです。使用価値=有用性がある。しかし、例えば、資本主義社会で商品となっているモノには交換価値がある。その交換価値が価値です。モノ(商品)は、それを作ったり売ろうとしたりしている人にとっての、「使用価値」ではない。なにしろ、売ろうとしているわけですから、自分では使わない「他人のための使用価値」です。けれど、100円ショップのコップが、ある種の人、たとえば「私はバカラじゃないと嫌だ」という人にとっては値打ちがない、ということがある。つまり、道具として有用なものであっても、バカラのコップが欲しい人にとっては、それは、有用性を持つことはないから使用価値もない、ということになる。つまり、価値というのは、それを認める人にとっての「有用性」にほかならない、ということです。だから、あるものが、いついかなるときでも、誰に対しても「価値」がある、ということにはならない。
価値は人の欲望との関係で生まれます。欲望されないものには、使用価値はあっても交換価値がない。「他人のための使用価値」がないと、それは交換されないから、価値にならない。文章だって服だって、同じことです。単に文であったり服であったりすれば価値があるわけではない。文を書いたり服を作ったりする人がどんなに「価値」があると思っても、それが他人に読まれたり着られたりしなければ「価値」はない。人間だってそうです。たとえば、君のことをお金儲けに役に立つなと思っている人がいたり、君がいるだけで幸せですと言ってくれる人がいたりしたとき、君は他人の役に立っていることになる。つまり、価値がある。そういう人が1人もいなくても、でも、たとえば、「ちょっとそこのものを取ってきて」と誰かに言われて取りに行く力があるなら、それは君に価値があるということになる。「他人のための使用価値」があるから。マルクス読みはそう思う。
君がいてくれれば私は幸せという人、君の原稿を会社で欲する人や読者がいれば、価値が生まれるんですよ。だから絶対の価値というのはない。人は何かと関係するということだけが絶対で、それ以外のことは絶対じゃなく相対的なんです。
抑圧されたものの回帰、“あえて”ファッションを評論
ー鈴木さんの今後について聞かせて下さい。noteのほか、マルチプラットフォーム「ツァイトガイスト(ZEITGEIST)」を立ち上げられました。
ツァイトガイストは(ユナイテッドアローズの)栗野宏文さんに誘って頂いて、この間ライブトークショーをやりましたが、栗野さんがそういう場所を作ってくれたことがきっかけで生まれたものです。そういうことでもなければ、できなかったかもしれない。お呼びがかからないと他人のための使用価値がない、イコール価値がないわけですから(笑)。あとは、いくつか執筆依頼を頂いたので、その記事は3月の終わりごろから順次、複数のメディアに掲載されると思います。
ー仕事の依頼はあまり断らない?
そんなに依頼がないからね。沢山あったら断ることもあるでしょうけどね。いつか、舘ひろしさんが、断るとギャラが上がるらしい、と言ってましたから、そのうち、断ったりするかもしれませんが、今は断らないつもりです(笑)。
ー持っている服はやはり「トム ブラウン(THOM BROWNE)」が多いですか?
まぁ、そうですね。でも、今日はトム ブラウン以外も着ています。コートは「ポール・スミス(Paul Smith)」のウィメンズで、靴は「プラダ(PRADA)」、ソックスは「ロロ・ピアーナ(Loro Piana)」、キャスケットは「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」です。時計はいつも大体同じ重さのものを右と左にひとつずつ着けていて、今日は「ティソ(TISSOT)」と「ブルガリ(BVLGARI)」。
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「ティソ(TISSOT)」と「ブルガリ(BVLGARI)」の時計
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ーウクライナ情勢はファッション業界にも様々な影響を及ぼしています。
ロシアはマーケットとして厳しくなったし、高いものを見せびらかすということが難しくなるムードも出てくるでしょう。この間パリコレがあったけれど、ファッションウィークにまた行きたいねというジャーナリストが沢山いるから、ある程度は、今あるファッションシステムは続くのかもしれない。
ちなみに「抑圧されたものの回帰」という言葉聞いたことある?
ーフロイトですか?
そう。意識下に封印された記憶のことだけど、こうした社会状況の下で抑圧されて封印されていたものがこれから表出してくるんじゃないかと考えてます。コロナで約2年抑圧されたものは多分戻ってくると思う。アルベール・カミュの「ペスト」は第2次世界大戦のメタファーと言われているけど、ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルドなどは、第1次世界大戦の後に刹那的な快楽に走る若者たちの群像を描いた。つまり、疫病や戦争などの状況下で抑圧されてきた官能の肯定、快楽の肯定、刹那の肯定、というフェーズがこれから来ると僕は思っています。「アプレ・ゲール」(戦後)ですね。それはファッションにも反映されて、それこそ官能的なファッションが戻ってくるような気がする。それは今のファッション界を席巻しているワークウェアやアスレティックウェアのストリート・テイストとは違うものだよね。それがいつかはわからないけど、その動きは出始めているんじゃないかな。
またそれは同時に、ある種の形式性の復活をもたらすでしょう。例えばウェアでいったらテーラード。女性がテーラードを着たり、テーラードと露出的官能性のドッキングだったり。そういうことを意識的にやるデザイナーがどれだけ出るかは分からないけど、そういうものが新しい形で回帰してくるのではないか。それから、もうひとつ。単なるラグジュアリーファッションが機能不全を見せるようになって、ラグジュアリーブランドがストリートやスポーツの専業ブランドとコラボして限定アイテムを連発し、記号消費を加速させている。そうして訪れたのが、限定物の量産化。で、こういうスキームは、これからも続いていくんじゃない?というのは評論家的な言い方になるかもしれないけれど(笑)、僕は矛盾こそがファッションだろうと思うわけ。
話は逸れるけど、音楽のロックというジャンルは消えたんじゃない?
ー若年層のロック離れは色々な媒体で言われていますね。
ヒップホップはロックじゃなかったりするわけでしょ?Official髭男dismやKing Gnuはどのジャンルになるの?
ーJ-ROCK......?難しいですね。
それはファッションも同じなんじゃないかな。Ye(カニエ・ウェスト)もヒップホップなの?ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)も、キム・ジョーンズ(Kim Jones)も何ファッションと言えばいいか分からない。エディ・スリマンはあまり変わらないけど。
ーエディは最近テイスト変わってきてますけどね。
ブルジョワ・テイスト、といっても古着になったブルジョワの服のような感じなのですが、そういうテイストが今っぽいティーンズ・ロックみたいだよね、最近の「セリーヌ(CELINE)」は。いずれにしてもカテゴリー化が難しくなってきている。ファッションは回帰するもので、それはいつの時代も同じだけど、ただジャンルが変わってきている。オートクチュールからプレタポルテがメインになって、プレタポルテが高級化しつつ大衆化していった。高級化したプレタポルテは新しい消費者をどんどん開拓することに成功して、LVMHやケリングはビジネス拡大を続けているわけですが、彼らはこれからをどう考えているんだろう。それにラグジュアリーファッションの作り手の側も、セントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)やアントワープ王立芸術アカデミー、そして文化服装学院出身者でもない、そういうシステムとは関係ないところから出てきている人が増えているわけで。そうなると、服の学校でデザインを学んでいた人はそういう新種のクリエイティブディレクターに使われる部品として機能するようになって、これまでにない混沌とした展開があるかもしれない。ま、仮にそうなってもそれが良くないわけではない。そういうところから新しいものが生まれるかもしれないからね。
(聞き手:芳之内史也)
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