Image by: 杉田聖司
「designer’s dialogue」は、アップカミングなデザイナーの今ここ現在地から見えるもの、感じるもの、つくるものについて対話を重ねていくインタビュー連載。ファッションマガジン「apartment」の杉田聖司を聞き手に、デザイナー自身の半生を遡りながら、ファッション史との繋ぎ目を確かめながら、これからのつくり手のあり方を探っていく。
第3回は、役目を終えたタオルや毛布などの日用品を素材に新たな服を作る「アヤヤマナカ(AYA YAMANAKA)」デザイナーの山中彩。アパレルの販売員を経験した後、ベルリンの拠点を移し、ドイツ・ベルリン発のブランド「ブレス(BLESS)」でアシスタントを約7年務め、2021年に帰国するタイミングで自身のブランドを立ち上げた。現在は、国内外の様々な都市で展示会や即売会を開催している山中。昨年末に「ハウス@ミキリハッシン」で開催された企画展「under your nose」会期直前の山中を訪ね、「サステナブルであることは“当たり前”」と話す同氏の考えの根幹にある服作りの未来について考える。
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前提条件としてのサステナビリティ
ー「アヤヤマナカ」ではキッチンタオルをベストやパンツに、毛布をジャケットやプルオーバーに、と日用品を服に作り変えるスタイルが特徴です。このような服づくりを始めたきっかけを教えてください。
まず第一にサステナビリティという前提があります。ファッション産業が環境に及ぼす悪影響に加担したくない。でも、服を作るのは好きだし続けていきたい。だから、一番身近なものを生地として扱い、自分の目の届く範囲で、循環する流れの中で服を作ろうと思ったことがきっかけです。これならまだ「自分を許せる」というか。
ー服作りの前提にサステナビリティがあるのですね。
「サステナビリティ」という言葉は日本に帰ってきてからより意識するようになりました。ベルリンに住んでいた頃は、友人が立ち上げた郊外のカフェで働いていて、そこでの体験がブランドを立ち上げるインスピレーションになっています。
ー具体的にはどんな体験だったんでしょうか?
カフェのキッチンでは、お皿や手を拭いたり、商品を包んだり、様々な場面で色々なタオルを使っていました。そういったタオルを着られたら可愛いし便利だなと思い、既製品の新品のキッチンタオルを使ってユニフォームを作ったのが始まりです。ここで思いついた「もともと存在する布製品を使う」というアイデアは今のスタイルにも影響を与えていると思います。
ーベルリンで学んだサステナビリティという考え方を、改めて日本に帰ってきたことで特に意識するようになったのはなぜですか?
毎日のベルリンの生活で普通になっていたこと、例えば「なるべくプラスチック製ものは買わない」「紙製のものを使う」「壊れたら修理して使う」「過剰包装しない」といったことが、日本では頑張っても同じようにはできず、改めてドイツの環境や人々のマインドに感謝するようになりました。日本でも気にされている方は増えていると思いますが、もっと多くの人がそれを普通だと思えるように、ブランドの表現の中にも取り入れていきたいと思っています。
はじまりはテレビの中の「物語」
ー山中さんご自身の生まれは京都、育ちは滋賀ですが、幼少期を過ごした2つの街からは何か影響を受けていますか?
当時から京都にも滋賀にもセレクトショップや古着屋は東京と比べると少なく、街から得たインスピレーションは特にないかもしれません。流行っているテレビを見て、流行っている音楽を聴く、普通の幼少期を過ごしていて、ファッションが身近にある環境ではありませんでしたが、幼稚園か小学生の頃に流行っていたアニメ「ご近所物語」を観て「服を作るのって楽しそうだな」と思いファッションデザイナーに興味を持ち始めました。
ーメディアを通じた体験の影響が大きいのですね。幼少からデザイナーに興味があったとのことですが、初めて自分で服を作ったのはいつですか?
小学生の頃かな。服ではないんですが、祖母に家庭用ミシンを買ってもらって、いらなくなったジーンズを切ってくっつけてバッグを作ったりしていました。
ー服から日用品へ、今のスタイルとプロセスは反対ですが、身近にあるものを素材にするという点では重なりますね。そこから服作りに発展していったのでしょうか?
のめり込むと言うよりは、思い立ったら作る程度でしたが、中学校の制服のリボンを結んだ形のまま縫い合わせ、結ぶ手間を省けるリボンを友人と作った思い出があります。
ー現実的で効率的なものづくりという点では現在に通じているかもしれません。高校卒業後は美術系の大学に通われたんですよね。
京都造形大学(現:京都芸術大学)の空間演出デザイン学科ファッションデザインコースに通っていました。「ご近所物語」を観て感じた気持ちはずっと変わらず、やっぱりファッションを学びたいと思って。でも入学するとずっと課題に追われる毎日で、実果子(同作の主人公)たちみたいにキャピキャピはしていられないんだと気付きました(笑)。
ー学校は「ファッションで表現する」というより「技術を教える」スタンスだったんですか?
そういうスタンスの授業もありました。でも学科は空間演出デザイン学科なのでファッション以外の授業もあって面白かったですよ。公園で段ボールのオブジェクトを作ったり、一見ファッションとは全然関係ない授業も受けていました。
ー大学時代はどのような作品を作られていたのでしょうか?
卒業制作では友人3人と架空のブランドを立ち上げて服を作りました。木の破片を型に取って、樹脂で透明のピースを作って、それを繋ぎ合わせてベストを作ったり。他にも、服ではなく「不安定も楽しむ」ためのダイニングテーブルというものを作りました。食事の際に食器を置く場所の統計を取って導き出された、テーブルの上の「多くの人が食器を無意識に置きやすい場所」をあえてくり抜いて柔らかい素材に差し替えたテーブルです。何気なく食器を置くとテーブルが柔らかくて食器が安定しないんです。
憧れ、だけではないファッションへの葛藤
ー学生時代はどのような人やものに影響を受けていたんでしょうか?
今まさに話題になっていますが、フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)です。彼女が「セリーヌ(CELINE)」を手掛け始めた頃、街中に張り出された広告ヴィジュアルを偶然旅行先の韓国で見かけて衝撃を受けました。
ーフィービーが率いた時代のセリーヌのどんなところに惹かれたと思いますか?
それまでメンズシルエットのウィメンズの服はまだ多くはなかったので、彼女の服は魅力的に感じました。あと影響を受けたのは、マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)時代の「メゾン・マルジェラ(Maison Margiela)」ですね。
ーアーティザナル(古着を解体再構築したライン)など、山中さんの服作りにはマルジェラとの親和性を感じます。
ベルリンに住んでいた頃はブレスで3ヶ月インターンをした後、フリーランスのアシスタントとして働いていました。ブレスが作ったファーウィッグがマルジェラの1997年秋冬コレクションのショーで使われていたりと繋がりを感じる機会があり、さらにリサーチするようになりました。
ー大学卒業後すぐにベルリンに移られた訳ではない?
大学卒業後は滋賀に戻ってアパレルショップの販売員をしていました。元々はデザイナー職に就こうと思っていたんですが、いわゆる就職氷河期の真っ只中だったので簡単には行かず。やっと入ることができた会社は、ショップ店員をしながら将来的にはデザインもできる会社だったのですが、気がついたらデザイン部門が閉業していて(笑)。それをきっかけに、特に目的は決めずにベルリン行きのワーキングホリデービザを取ってみたんです。
ーブレスでのインターンやデザインの勉強を目的にしていたわけではなかったのですね。
日本でデザインの仕事に就けなかった時点で、もうデザインすることはないだろうなと思っていたので。なので、ベルリンに住み始めた時はやることもなくて、ドイツ語を勉強してみたり、日本系飲食店でアルバイトしたりしていました。
ーその状態からもう一度ファッションデザインに挑戦したきっかけは?
ベルリンには“自称”アーティストが沢山いて、学生でも、どんな人でも、胸を張って「私はアーティストです」って言うんです。それが大きなカルチャーショックでした。日本だと、売れていないとアーティストだと名乗れない風潮がある印象ですが、ベルリンでの生活では立て続けにアーティストに出会うことができて「もしかしたら私もできるかも」という気持ちになりました。
ーベルリンに移住されたことで、ご自身の制作への意識にも変化が見えるようになるんですね。
もう一つベルリンで受けたカルチャーショックは、誰もが様々な社会問題についてよく話すこと。自然と日本にいた時よりもそういうトピックに触れる機会が増えました。特に印象的だったのが、私がベルリンに行った2013年にバングラデシュで起きた「ラナ・プラザ崩落事故」。周りでもこの話題が飛び交っていましたし、個人的にも大きな出来事でした。「私はこんなに服が好きだけど、見えないところでこんなに被害にあっている人がいる」ということにやっと気がつくことができて、自分の中でファッションに対する意識が変わっていきました。
自由、そしてストイックなベルリンのクリエイション
ーどのような経緯でブレスで働くようになったのですか?
ベルリンでたくさんの「アーティスト」に出会って、もう一度挑戦を志したことでビザを更新して、ダメもとでブレスに履歴書とポートフォリオを送ってみたんです。彼女たちは自分たちの手で服づくりを続ける数少ないブランドのうちの一つでもありましたし、個人的にも彼女たちのファンだったので。でも一向に返事がなかったのでスタジオに直撃したら、ちょうど忙しい時期だったようでマネージャーにひどく怒られて、「絶対落ちたな」とその時は落ち込んで帰ったのを覚えています。でもその後「面接しよう」と改めて先方からメールが来て、最終的には採用してもらえました。
ー実際にブレスで働いて、デザイナーのデジレーさんとイネスさんをはじめチームからはどのような影響を受けましたか?
数えきれないほどの影響を受けました。自分の認識の中ではタブーだと思っていたような様々なことが目の前で、しかも憧れのブレスのスタジオで行われていて、大学で学んだ服作りの全てが打ち砕かれるような驚きの連続でした。「もっと自由でいいんだ」と気付かされましたね。
ーそれまでしてきた服づくりにはどこか窮屈さを感じていたんでしょうか。
窮屈さすらも感じることができていなかったと思います。それまではそれが私の普通だったので。ブレスは突き抜けて自由だからこそかっこいいんだなと思うことが理解できました。
ーファブリックなどを扱う現代アーティストのレオノール・アントゥネス(Leonor Antunes)のアトリエでもアシスタントをされていましたよね。
レオノールのことは、イネスに紹介してもらいました。彼女からは「かっこいい作品は手がかかる」ということを学びました。例えば、すごく長いレザーをひたすら手縫いするとか、真鍮の針金をつなぎ合わせ続けるとか。単純ですが身をもって経験できてよかったです。
ーそこから帰国されて2021年に「AYA YAMANAKA」をスタート。ベルリンではなく日本を拠点に活動を始められたんですね。
キッチンタオルのコレクション「Towel series」は、ベルリン郊外(友人のカフェがあった場所)での展示会では面白がってはもらえたもののオーダーも少なく、正直あまり手応えを感じられませんでした。ですが、奈良で開催した展示会の反応はとても良くて、「日本の人たちには届くんだ」という発見がありました。そのあとの大阪での展示会でもたくさんオーダーをいただき、日本から始めるのもいいかな?と思ったんです。
ードイツと日本の反応の違いはどこから来ていると感じられますか?
ドイツの人は服にあまりお金を使う習慣がないですし、とにかくものを大事にするので基本みんな古着を着ています。破れたら自分で直すDIY精神もある。それは良くも悪くもドイツと日本の違いかもしれません。
ー山中さんのものを大事にする感覚やDIYの感覚はドイツで培われてきたんですね。
そうですね。一時期ドイツ人の女性2人とシェアハウスで共同生活をしていたんですが、彼女たちは2段ベッドを1から作っていました(笑)。
“物語”が重なり巡る一着を
ー最新コレクション「Blanket series」は毛布を素材に使っていますね。
ベルリンにあるベトナム系スーパーで毛布を見つけたときに思いつきました。懐かしさを感じましたし、ベルリンの冬は寒いのでちょうどいいと思って。日本に帰った際に早速実家の毛布で試作を始めました。
ー近年、ファッションデザインの前提にサステナビリティを置くことで、クリエイションが制限されてしまうという意見もあると思います。ご自身はそのような不自由さを感じられることはありますか?
私は制限の中でデザインする方が好きなんです。だから今のやり方が自分に合っていると思っています。身の回りにあるものの中でできることは本当はまだまだあるはずなんですよね。
ー毛布という、子どもの頃から親しみがあり個人的な記憶と結びつきやすいアイテムを採用されていますが、マテリアル自体にはどのような背景があるのでしょうか?
ジモティーで譲ってもらったり、フリマサイトで買ったり、誰かにとって「もういらなくなったもの」を使っています。(熊柄の毛布を使ったプルオーバーを指しながら)この毛布を譲ってくれた人は普段は京都の「平安蚤の市」で古物を出品されている方だったりと、時には過去の持ち主と直接会って受け取ることもあります。
ーリアルな人物像が浮かび上がってきますね。でも山中さんのフィルターを通すと元の持ち主の生活を感じる“生々しさ”が軽やかに、ファッショナブルなものとして昇華されている気がします。
シルエットが全部同じだからでしょうか。もっと有機的な形だと生々しくなるのかな。
ー無機的な側面もあるからこそ、これからの自分の物語を重ねられる。それはこのコレクションならではの強さかもしれませんね。
この服が色々な人の元を巡って物語が重なっていき、「循環する流れ」を生み出せたら嬉しいですね。
ーこれからのファッションデザインは「作ったあと」まで考えていく必要があるかと思います。その点も踏まえつつ、今後ファッションデザイナーが胸を張って服を作り続けるためにどういう意識が必要だと考えますか?
まずは「自分が一番良いと思うものをつくる」という意識だと思います。私が欲しいと思う服を絶対に欲しいと思ってくれる誰かがいる。その誰かは作ったあとのその服を長く愛してくれるはず。単純だけど一番大事。
ー山中さんは東京、大阪、京都、奈良、島根、ソウルなど、さまざまな土地に実際に足を運んで展示会や即売会を開催されています。その時間は山中さんにとって「誰か」の存在を確かめる大切な時間なのかもしれないですね。
展示会に来てくれる人や実際に服を買ってくれる人には「なんでこんな変な生地を使っているんだろう?」って不思議に感じて欲しいんです。そこからもう役目を終えたものを素材に使っている理由を考えたり、日頃から買うものを意識してみたり、様々な服がつくられている背景を調べてみたり。その人の内側にも新たな変化が生まれればいいなと思っています。
1999年生まれ。ファッションを中心に企画、インタビュー、シューティングなどを行う。2019年よりファッションマガジン「apartment」を主宰し、個々人の装いを起点とした雑誌発行やイベント制作などを継続中。
(編集:橋本知佳子)
◾️AYA YAMANAKA:Instagram
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