ファッションの完成に欠かせないビューティ。トータルの美しさを作り出すメイクアップアーティストとはどんな人たちなのか?業界でも一目置かれるメイクアップアーティストの、幼少期から現在までをひも解く連載「美を伝える人」。第3回は、「スリー(THREE)」のグローバル クリエイティブ ディレクター・RIE OMOTO氏。星が降る美しい町でのびのび育った幼少期から、海外での苦しくも刺激的なアシスタント時代、そしてTHREEとの出合い、今、これからを聞いた。
■RIE OMOTO(りえ おおもと)
THREE グローバル クリエイティブ ディレクター。岡山県出身。日本からロンドンへ渡った後、パリでの活動を経てNYに拠点を置く。名だたるファッション誌やハイブランド、有名アーティストとの数々のコラボレーションワークを通じ、洗練されたメイクアップと意思ある人間像を世に発信。2009年、「スリー(THREE)」の誕生と同時にディレクターに就任。メイクアッププロダクトの開発にはじまり、ブランド全体のクリエイティブディレクターとして、その基盤からTHREEのアイデンティティを支えている。NY在住。
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ーいつお会いしてもパワフルで明るい印象がありますが、子どもの頃も元気いっぱいという感じだったのでしょうか?
自分で言うのもあれですけど、やっぱり変わった子だったと思います(笑)。
ーなんとなくわかります(笑)。
私、ものすごく田舎で育ったんですよ。岡山県の美星町という、日本でいちばん星がきれいな町、と言われているところ。実際に天文台もあって、そこから発見された星がいくつもあるような。
ーすごい! 素敵じゃないですか。
そう、空気がとっても澄んでいて、夜はまぶしいぐらいに星が輝いているのが当たり前のきれいな町。でも、私のようなはみ出し者は変に目立ってしまうと言いますか…。
ーはみ出し者!(笑)。具体的に、どんなお子さんだったのでしょうか?
「女の子はこういう遊びをするものだ」という決めつけへの反抗だったのか、とにかく人と同じことをすることが大嫌いでしたね。男の子と一緒に木登りしたり基地を作ったりするようなトムボーイっぽい子どもでした。「みんなと同じようにしなさい」とか「変わったことをするな」とか周りからさんざん注意されてきましたが、その度に「何が悪いの!」って言い返したりして。親も大変だったと思います(笑)。
ー学校でも先生に反抗したり…?
納得のいく理由もなく「こうしなさい」と決めつけられたり、押さえつけられることに反発していただけで、意味もなく先生に反抗する、ということはありませんでしたね。学級委員をやったりもしていましたし。私、おばあちゃん子だったので、おばあちゃんの言うことだけは素直に聞いていたんです。「好きにさせてー!」ってわめきつつも、おばあちゃんから言われる「畳の縁は踏んではいけない」とか、「こっちに頭を向けてはいけない」とか、「こういう時は、こんなふうに礼をしなさい」という礼儀みたいなものはなぜか素直に守る子でしたね。
ーやんちゃではあったけれど、おばあさまにいいことはいい、悪いことは悪いときちんと教わってこられたんですね。おばあさまはどんな方だったんですか?
それが、おばあちゃんもちょっと変わっていて、今から思えばシャーマンみたいな人でした。
ーシャ、シャーマンですか?
近所の人が、「子どもが夜泣きをして寝ない」って家に連れて来るのですが、おばあちゃんがその子どもに何かを施すと、その夜から寝つきが良くなり夜泣きがスッとおさまる…みたいな光景をよく目にしていました。
ーおばあさまは一体何を……? ものすごく気になりますが、その能力をRIEさんは受け継がれていないのですか?
まったくないですね、残念ながら(笑)。おばあちゃんといると妙に心が落ち着いたのはそういう不思議な力のおかげだったのかなと、今ではなんとなく思います。
ーその頃の夢って覚えてますか?
ファッションデザイナーになりたかったんだと思います。母が絵を描くのが上手だったのもあって、私もよく絵を描いていたんですけど、色とりどりのジーンズとか、それに合わせるトップスとか、お洋服の絵を描いていたのを覚えています。
ーその頃からファッションに目覚めていたのですね!
そうみたいです。あとよく覚えているのが、「人が決めたものを着たくない!」とよく言っていたこと。明日着ていく服を母がなんとなく用意してくれていたのですが、「こんなのじゃ嫌!」って、自分でコーディネートを考えて納得したものを着て登校していました。反骨精神と従順さが両極端な子でしたね(笑)。
ー中学校、高校での学生生活はいかがでしたか?
スポーツが好きだったので、小学校の終わりごろからバレーボールに打ち込んでいました。インターハイで優勝するような学校に入学したこともあり、鬼のような特訓に明け暮れる日々。バレーボールが楽しくて入ったはずなのに大嫌いになりそうなぐらい、練習は本当に辛かったです。
ー嫌いになるぐらい…。その苦しかった経験が今に生きてるなあと感じることはありますか?
ちょっとぐらい厳しい状況になっても、途中で音を上げることがなくなったかなとは思います。辛くても弱音を吐かないとか。もちろん、人生の中でへこたれることはたくさんあったけれど、「あのときの血を吐くような日々に比べたら…」って思ったら大体のことは乗り切れるという(笑)。現代の若者たちは「気合い入れろ」とか「根性で乗り切れよ」とか、言わないですよね? もっと効率良くスマートに生きているから。でも今振り返れば、こうして精神的にタフになれたし、体ってメモリーだから筋力も体力もついてる。今でも日々エネルギッシュに動けているのは、あの頃に「心・技・体」を鍛え抜いてきたおかげのような気もしなくはないです。
ー高校時代は3年間バレーボール一色、という感じだったのでしょうか。
高校では寮生活で、一日中バレーボール漬けだったのですが、3年生のときに足を怪我してしまって。そのタイミングでバレーボールを引退しました。寮生活を離れて、朝5時に起きて近所のパン屋さんでアルバイトをしたりしていました。元々ファッションに興味があったから、雑誌に載っている服を手に入れたくて、コツコツ稼いだバイト代でヨシエ・イナバさんの服を買いました。とってもかっこよくて、すごく嬉しかったことを覚えています。
ーでも、服飾系には進まなかったんですよね?
そうですね。今でいうセレクトショップで働いてみたことはありました。高松にある、50人以上スタッフのいる規模の大きなお店だったのですが、1年経たないうちに売上No.1になったりして。それなりに楽しかったのですが、実際にファッションの世界に触れてみて、「着るのは好きだけど作る方にはそれほど興味がわかないな」と思ってしまったんですよね。それよりも、当時から髪を坊主にしたりグリーンにしたりして、ファッションにどんなヘアメイクを合わせるのかを考える方が好きでした。そんな時、通っていた美容室のヘアスタイリストさんに、「美容師になった方がいいんじゃない」って言われて。それで、美容室でインターンしながら美容学校に通うことにしたんです。ー(中)に続く
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