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ビューティ業界で注目を集めるトップランナーとして走り続けるメイクアップアーティストたちの、幼少期から現在までをひも解く連載「美を伝える人」。企業編第2回のゲストはuka代表取締役CEO 渡邉弘幸氏。アメリカンフットボール選手として活躍後、大手広告代理店博報堂で手腕を奮い、妻でありトップネイリストとして活躍するuka代表 渡邉季穂氏の祖父が創業した美容室を、トータルビューティサロン「uka(ウカ)」へとリブランディングさせた立役者。そんな渡邉氏の、幼少期から青春時代、仕事観、今伝えたいウカの新たなプロジェクト、ヘアカラーの概念を変える石垣産の「ウカヘナ」に込めた想い、そして思い描く未来についてーー。
■渡邉弘幸(わたなべ ひろゆき)
東京都出身。明治大学卒業後、大手広告代理店・株式会社博報堂に入社。2009年に退社後、夫人でありネイリストとして活躍する渡邉季穂さんの祖父が創業した株式会社向原(現・株式会社ウカ)に取締役副社長として入社。美容室「エクセル」からトータルビューティサロン「uka(ウカ)」へのリブランディングのほか、教育機関ukademy、オリジナルプロダクト・サロンメニューの開発を担うR&D、ukafeの立ち上げ、海外展開にも尽力。2017年には一般社団法人アジアビューティアカデミー(ABA)理事長に就任。黒髪文化をアジア諸国と共有しアジア全体の美容経済発展に貢献。2014年から代表取締役CEO。2022年に一般社団法人BEAUDOUBLEの理事に就任。美容を通して子どもたちに光を届けるプロジェクトに参加している。
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「色博士」になりたかった幼少期
ー大学時代はアメフト選手として名を挙げ、博報堂ではマーケティングやブランディングで活躍し、退職後もウカのリブランディングを大成功に導く。華麗すぎるご経歴をお持ちですが、幼少期の渡邉さんはどんなお子さんだったのでしょうか?
自分ではよく覚えていないんですよね。親に聞こうかな~と思ったんですけど、想像しただけで気恥ずかしかったのでやめました(笑)。一生懸命思い返してみたのですが、覚えているのは「色」が好きだったこと。子どものころ、「君の夢はなに?」って聞かれたら「色博士になりたい」と答えていましたね。
ー色博士?
色博士っていうと変なふうに聞こえるかもしれないけどカラーの方ですよ(笑)。色を眺めたり組み合わせを考えたりするのが好きだったんでしょうね。姉に遊んでもらいたい一心で女の子みたいなカラフルな服を着てアピールしたり、母の鏡台にある口紅をぐちゃぐちゃに混ぜて「新色だ」とか言って遊んでいたみたい。めちゃくちゃ怒られたけどね(笑)。
ー今の渡邉さんになんとなく繋がるエピソードですね。
どうなんでしょう(笑)。今は製品のカラーに関しては季穂が担当しているので、僕は「いいんじゃない?」って言うぐらいで関係ないっちゃないんですけどね。強引に結びつけるとしたら、プロダクトの色とかデザインとか素材にこだわるのは、母が昔カネボウ化粧品の美容部員だったり、自宅で和裁の先生をやっていたりして、「美しさ」とか「美しいもの」をなんとなく目にしてきたことが少なからず影響しているのかもしれませんね。
「ポパイ」でのバイトと夜遊びに夢中の高校時代、そしてアメフト三昧の大学生活
ー学生時代の思い出は?
高校時代はアメフト部の部活が週3日くらいしかなかったので、練習のない日は六本木や渋谷で夜遅くまで遊びまくっていましたね(笑)。もともと服が好きだったこともあり、そのころ知り合ったスタイリストの山本康一郎さんに誘ってもらって、ポパイ編集部でアルバイトもしていて。
ー高校生でポパイ編集部に出入りしていたんですね。どんなお仕事だったのでしょうか?
高校生なのに衣装のリースに行かされたり、体が大きいからとモデルの代わりをさせられたり。今ではあり得ないと思うんですけど、いろんな刺激的な経験をさせてもらいました。今ではファッション業界でトップを行く人たちとたくさん出会うことができましたし、未だに仕事やプライベートでつながっている。学生時代の出会いと経験は僕の人生の宝物ですね。実は妻の季穂とも高校1年のときから付き合っているんですよ。
ーもともと服が好きで、業界の重鎮の方々との人脈もできていたら、そのままファッション業界へ…と考えてしまいそうですが、そうはならずに博報堂に入社されたのはなぜですか?
大学生活でアメフトに打ち込んだことが転機だったように思います。高校時代、バイトと遊びに明け暮れてはいたものの部活は真面目にやっていたので、アメフトで明治大学に入ったんです。大学の体育会系ですから。そこからグラウンドと寮を行き来するような、これまでとは真逆のストイックな学生生活に一変して。ぐちゃぐちゃだった自分を一回リセットできたような気がしました。アメフトに真面目に打ち込んだおかげでMVPをもらえるぐらいに結果を残すことができ、それがきっかけで博報堂に入社できた。アメフトが自分を救ってくれた、そんな感じです。
アメフトに明け暮れた学生時代
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バブル期に入社した博報堂
ーアメフト選手からサラリーマンへ。また生活がガラッと変わりますね。
入社時はバブルの終わりかけのころ。大人のお金の使い方に衝撃を受けたことを覚えています。毎日とにかく忙しくて、仕事が終わるのが遅かったので、チームリーダーが「飯でも食いに行くか」と毎晩のように誘ってくれるのですが、僕だけでなく残業していた4~5人分美味しいご飯を奢ってくれて、タクシー代までくれるという(笑)。接待とかも、赤坂のすっぽん料亭や向島の芸者さんがいるお店、きれいなお姉さんのいるクラブなど、会社のお金じゃないとできないような贅沢な経験をたくさんさせていただきました(笑)。
ー今の時代では考えられない世界ですね(笑)。バブルが弾けた後はどう変わりましたか?
可愛がっていた後輩がバタバタと辞めていったり、ビジネス企業っぽい精神をもつ人材が不足してしまったのは辛かったですね。今までみたいに“地に足のついていない”企業体質から脱却しなくては、と会社もクライアントも危機感を持つようになり、仕事の方向性も変わっていきました。企業再生、とまではいかないけれど、パートナーとしてトップまで食い込んで、クライアントのやりたいことをサポートをする。そうやってブランディングに力を入れていくようになりました。約20年続けていく中で、ブランドとはどういうものか、その企業の根幹を学べたと思います。僕は割とそういうのが好きだったので楽しかったですね。
丸ビルのローンチに掛けた思い
ーukaのリブランディングにもつながるお話ですね。博報堂時代、たくさんのプロジェクトに携わってこられたと思いますが、いちばん印象深かった出来事は?
丸ビル(丸の内ビルディング)のローンチですかね。最終的には日経MJの番付で「西の横綱」を取ったんですよね。
都市再生特別措置法が改正されて、東京都心部に大きい商業施設を作れるようになったんです。今でこそオフィスビルに開かれた商業施設があるのは珍しくありませんが、丸ビルはその先駆けでした。僕は入社当時、丸の内にあるビルに出社していたので、丸の内という土地に思い入れがあって。バブル以降、テナントが去ってスカスカになってしまって寂しかった。だから、土地の価値をもう一回上げていく一大プロジェクトに携わることができて嬉しかったですね。
ー振り返ると、丸ビルのオープンは話題になり大盛況だったので大成功ということだと思いますが、当時は閑散となった街に人を呼び込むことは大変ではなかった?
先ほども言いましたが、もともとオフィスは丸の内にあって地元の人ともなじみがあって街の歴史を知っていましたし、あそこにあれがあった、ここに人が集まってた、ということを分かっていました。だから三菱地所の人たちとじっくり話をしてそういうことを話し合って、少しずつ作っていきましたね。クライアントの課題に寄り添い、われわれがその課題を生活者の心地よさに結びつけていったという感じでしょうか。ものすごく大変だったけど、それ以上にやりがいがありました。
博報堂を辞める決断までのプロセス
ー20年勤めた博報堂を、奥様の事業を手伝うために42歳のときに退社されました。めちゃくちゃかっこいいな、と思いますが、かなりの覚悟が必要だったのでは?
確かに、博報堂時代はそれなりにお給料をもらっていたのですが、義母から提示された額がちょっと寂しくて(笑)。それを妻に伝えたら「今の仕事を続けながらでもいいじゃない」と言うので、直属の上司に相談したら、今の仕事を外注として続けてもいいよと言ってくれたんです。それで2人で「よかった~」なんて言って。
ーでも続けなかった?
それを聞きつけた取締役が「二足の草鞋で中途半端にやるなんて何事だ!奥さんの会社の従業員の気持ちになってみろ!」とめちゃくちゃ怒られて。「妻が続ければって言ってくれたんだけど…」と思いつつ、おっしゃる通りだな、と反省して覚悟を決めました(笑)。
ー後編に続く。
(文 ライターSAKAI NAOMI、聞き手・企画編集 福崎明子)
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