1962年にデビューし、60年以上にわたってファッション業界の第一線に立つ「ユキ トリヰ」のデザイナー・鳥居ユキ。毎年のパリ・東京でのコレクション発表だけでなく映画や演劇の衣装デザインも手掛けるなど、その活躍は日本はもちろん海外でも広く知られています。ファッションやライフスタイルに関する著作も発表しており、2023年には日々の暮らしを華やかにするためのヒントを綴った『80歳、ハッピーに生きる80の言葉』を上梓。今回は、80歳を超えてもなお現役としての姿勢を貫き、精力的な活動を続ける鳥居の経歴やデザインの特徴について紹介します。
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鳥居ユキとは
鳥居は1943年、東京で誕生。祖母・母もデザイナーという家庭に生まれ、幼少時からファッションに触れて育ちました。中学を卒業すると文化学院の美術科に3年飛び級で入学。卒業後、1962年には母・君子のショーの中で作品を発表し、デザイナーとしてのデビューを果たします。 その後は、年に2回のコレクション発表を行いながらテレビドラマや劇団四季の衣装デザインを担当し、1975年に初めてフランス・パリでコレクションを発表。1984年にはファッションブランド「ユキ トリヰ」を発足させ、翌年にはパリのギャラリー・ヴィヴィエンヌにブティックをオープンします。1994年にはメンズライン「YUKI TORII HOMME」をスタートさせ、2005年には国立代々木競技場第二体育館でパリ・コレクション30周年を記念したショーを開催しました。2011年にはデザイナー生活50周年を迎え、同年10月に100回目コレクションの発表を達成。現在もコレクションや衣装のデザインのほか、著書の執筆など精力的な活動を展開しています。
女性たちのリアルライフに寄り添うデザイン
鳥居のデザインの特徴としてあげられるのが、エレガントでありながらモダン、そして自由さも同居しているという唯一無二のテイスト。その根底には「着る人がハッピーでいられるデザインを」という思いが込められており、「おしゃれによって日々の暮らしの中で好奇心を保ち続ける」という美学を体現しています。
オリジナルプリントに描かれた美しい花や植物はブランドを代表するイメージとされており、鮮やかなタッチからは幼少時に画家を志していた鳥居のこだわりがふんだんに感じられます。また、コレクションで毎回多彩なカラーコーディネートを提案することから「色の魔術師」という異名を持つことでも知られています。 キャリアを重ねる中で鳥居は日本の伝統美に着目するようになり、パリコレクションでのデビュー時には、きものの文様のひとつ「十字絣(じゅうじがすり)」などに花のプリントを組み合わせたデザインが注目を集めました。このようなミクスチャー的表現は、その後もパッチワーク風の花柄ドレスに日本古来の染色技法である「よろけ縞(じま)」の要素を盛り込んだファッション感覚で着られる着物を、繊維会社とのコラボレーションにより考案するなど、さまざまな面で垣間見られます。
デザイナー一家に生まれる
鳥居の祖母・ミツは、終戦から間もない1946年に東京・早稲田で洋裁店を開業します。母・君子はこの店で注文を受けた服の仕立てを行い、4年後に独立。銀座に「トリヰ洋装店」を開業し、自身がデザインを手掛けた洋服を販売しました。ミツは十一代目・市川團十郎やオペラ歌手・藤原義江の後援会長を務め、君子も鳥居を連れてコンサートや歌舞伎など、さまざまな舞台を鑑賞していたことから、先進的な家庭環境で育ったことが伺いしれます。
君子は日本におけるプレタポルテのデザイナーの先駆けとして活躍するようになり、鳥居も中学生の頃から仕事を手伝うことで服飾への興味を募らせていきました。鳥居がデザイナーを志すようになったきっかけは、母と生地の買い付けに行った際、店頭に並んでいたのが暗い色の生地ばかりだったためオリジナルの生地を発注し、自分の着たい服を意識するようになったことからといいます。
19歳でコレクションデビュー
もともと画家志望だった鳥居は、周囲の環境から自然とデザイナーという職業を意識するようになり、文化学院へと進学。同期には菊池武夫や稲葉賀惠など、名だたる逸材が顔を揃えていました。卒業後は「トリヰ洋装店」を手伝いながら、伊藤すま子に師事し、デザイナーとしての基礎を学びました。デザイナーとしてのデビューは19歳。母・君子のショーに参加し、数年間は2人体制で作品を発表します。1970年には君子が経営に専念することになり、株式会社トリヰを設立。鳥居は代表デザイナーに就任します。すでに多方面での活躍を見せていた鳥居でしたが、このときに「自分が恵まれた環境で仕事をしていると実感し、デザイナーとして生きていく決意が固まった」と語っています。以後もコレクションや衣装製作など、幅広い活動を展開し、1975年のパリでのコレクションデビュー以後は、現在まで休むことなく年2回のコレクション発表を継続しています。
ジャン・ジャック・ピカールとの出会い
日本で着実にキャリアを重ねていた鳥居でしたが、母・君子は娘の将来に対し、「ファッション業界で仕事を続けるならば、やはりパリに行かなければ」と、パリデビューの準備に動きました。このデビューを影で支えたのがフランスの著名なファッションコンサルタントであるジャン・ジャック・ピカールです。ピカールはエルメスの広報やLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)のアドバイザーなどを務めてきたフランスファッション業界の重鎮ともいえる人物で、彼のアドバイスは、後の鳥居の活動にも大きな影響を与えています。ピカールは鳥居に「日本人であること」を全面に打ち出した演出を提案。会場に日本食レストランをチョイスし、床に藁のマットを敷くなどのオリエンタルな空間を設計、コレクションも絣の模様など着物風のデザインにするというアイデアを打ち出しました。こうして鳥居は1975年、パリでのコレクションデビューを達成。開催直後から現地のファッション業界で大きな注目を集め、『ELLE』や『20ans』といった一流ファッション誌でも大きく紹介されました。
流行に流されないものづくり
鳥居がデザイナーとしての地位を確立した1980年代前半、日本では、コムデギャルソンやヨウジヤマモトなど「黒の衝撃」と呼ばれるモード系のスタイルが注目を集めていました。鳥居とは異なるアプローチで日本らしさを体現した両者のコレクションはパリでも大きな話題となり、ファッション界に新たなムーブメントを生み出しました。このような状況の中でも鳥居はスタイルを崩すことなく、独自の世界を追求。時代とともに歩み、「流行は無視しないが同調もしない」という信念や、新しさだけでなく旧作とのマッチングを大事にするという姿勢により、どの時代においても幅広い層から熱烈な支持を受け続けています。
80歳で書籍を出版
デザイナーとして多忙な日々を送る中、鳥居は2023年に著作『80歳、ハッピーに生きる80の言葉』(主婦と⽣活社)を上梓。鳥居が創作の原動力としている“ハッピー”を暮らしの中でどのようにして見つけているか、そのヒントを「いとなむ」「愛でる」「装う」「大事にする」「携わる」という5つのチャプターに分けて綴っています。コレクションの写真やイラストも掲載されており、ファッション業界で働く人にとっても必読の内容。 本書の冒頭で鳥居は、「前だけを見続けていたら、いつの間にかデザイナーとして61年目を迎え、年齢も80歳になっていた」と語っており、精力的に活動を続けることが現役として勢いを失わない秘訣であることが伺い知れます。そんな生活の中であえて「80歳」という年齢を意識し、制作に臨んだという内容からは、花を愛し、日々の朝食作りや体調管理に気を使うという、デザイナーとして世界を相手にしてきた超人ぶりとは対称的ともいえる素朴な素顔が垣間見えます。
TEXT:伊東孝晃
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