Image by: FASHIONSNAP
この稿終わりと云っておきながら、再び不様に晒す駄文に、暫しお付き合いを願うわけである。数本がとこワンカップ大関をバカ呑みし、ショー後の舞台裏に最後まで居残り、酩酊状態が因で、恰も存在そのものが等身大の毛玉(ピリング)と成り果てた己が惨めさを省みることなく、私は長っ尻を決め込んでいた。それでも寒風に煽られ池袋駅を目指して歩く段になると、酔いも醒め、帰路に就く都営副都心線の車中を、私は、己が馬鹿さ加減を只管に呪うことに費やした。村上亮太をはじめ関係者の方々には、記事を介してまずはお詫びしたい(公のメディアを濫用して申し訳ないが)。村上は今季、宮沢賢治の世界に鼓舞されたらしい。創作の起点とか、細部の詳細とかは、他所の記事に譲ることにする。読者諸氏にとっては、その方が賢明だと思うからだ。独特の宇宙的感覚とか、宗教的信条に満ちた宮沢の詩や童話が創作の起点となったことだけに留めておく。番度くどいようだが、以下は村上のショーに係わる、飽く迄も私見であると断りを入れておく。
どうも変だぞ。どうも腑に落ちない。分からないことを強いて訊いてみようとしなくなることが、結局、分かったと云うことなのだろうか。どうも曖昧なのだな。どうも納得がいかぬ。分かったようで分からない境地。もどかしいな。人間内面を描く限りは、彼も私も、この堂々巡りを逃れ得ないだろうし、螺旋階段は無限に続くだろう。その遠因は、まさに心の中に解消されないで残って居る不信とか、疑問とか、不満とかの、心の奥底に沈殿する澱みたようなもの。村上は一々我々に暗示はするが、直に告白しようとはしない種々の暗い影が、彼の作品の上に落ちていることは間違いない。昨今の彼の作品は、そのような影の上に描いた蜃気楼のようなもので、それが物語の中より時々作者の吐息となって立ち昇ってくる。従ってその部分に、彼の叙情詩人的な面影が揺曳するのだ。一方には現実の退屈な人生があり、その反対側には、或る瞬間に、或る場面を契機として、取り上げられ、描き出された、仄暗さを背景に、異様に美しい光芒を輝かす人生がある。
今季に限って云えば、誤解を承知で突き進むと、村上がその執拗な自我を消し去り、外界を描くことに専念した結果が奏効したと云えるだろう(ニット以外の、皮革を含めた布帛表現に新境地を見せたあたりに実は私は泣かされた)。創作意図は知らぬが、この場合の外界とは、実際の大自然そのものではない。飽く迄も私の内部に膨らんだイメージに過ぎぬ。それは、分け入るにつれて却ってその実体を摑み難い樹海のようなものだ。村上は、樹海の中に路をつける数多の試みを用意してくれた。それでも尚且つ、この樹海は深く静かで、滅多に歩けば路に迷うこともある。或いは、その妙味を悟ることなく、望見しただけで引き返すひとも居たかも知れぬ。それは結局、樹海を見ないからであろう。また、見たくとも、この樹海があまりにも多種多様の樹木や草花よりなっているから、細部に気を取られるあまり、結局は樹海を見ていないに等しい場合だってあったかも知れぬ。村上が描出するところの樹海は、作者と我々の、それぞれの脳裏に蠢く想像力が生み出した鬱蒼とした茂みなのである(再び断りを入れておくが、樹海を想起させる色柄もモチーフも一切登場してはいない。寧ろ、遥か彼方より樹海を見下ろす銀河の大星雲が勘所となるモチーフだったと明記しておく)。
そのような脳髄を刺戟するところの視覚的風景の上に、作者の感覚が生き生きと働き、想像力が、そして人懐こく、重心がヤケに低い、野暮天式な主題が、その風景の周囲をモザイクのように作り上げる。常に彼の上手い作品は、必ずや斯様な極めてローアングル的な視覚に基づく印象より発想を得ているので、これが逆に、間違っても理智的でスマートな主題より想像力が働き、そこに風景が描き出される場合には、村上に於いては成功しているとは云い難いのである(本人の失笑を買うと思うが)。彼のこうした筋のある作品は、題材が多岐に亘っているため我々を文句なしに面白がらせる。まず見るものを捉えて離さないのは、彼の作品の持つ人工的な完成美である。その身も蓋もないほどに不恰好に凝り固まった文体である。プロットの美味さである。だがしかし、実作者の側より云えば、その努力は我々に対する少しく過剰気味なサービス精神に基づくものだとも云えなくはない。
彼の作品の特徴を挙げれば、私の記事のように、敢えて四角な字(番度誤用するが)を無駄に費やすヘタな書き言葉(文語)ではなく、まずは口語体であること。詩が短文であること。劇的、或いは私小説的であること。そして感覚的と云うよりも感情的であること。これらの特徴は、母堂と二人三脚で経てた習作時代(本当に初期の「リョウタムラカミ」)の作品群と比して共通して云えることである。村上は、飾りけのないウブな人間の人生の中に歩み入り、時には私みたようなダメ人生を覗き込み、生活の匂いのする詩を書き続けている。服作りの見地より見れば、村上の服は、人工的な、筋のある、モザイク的な作りものであろう。露も気取りのない、寧ろダメ文体によって作者自身の分身であり、同時に作者とは別個の人生を彫り上げてきた。と云って、今季の「ピリングス」が驚くほど奇抜で新しいかは疑問である。だが、村上の作品が、凡百の作りものと異なる所以は、彼が彼の人生に対して持っている誠実さを、己が創作に対しても持ち続けている点にある。今季の作品群に於ける彼の詩の一行は、どの一行も、彼の精魂を注いだ一行であり、彼の魂をその内に潜めている。我々は彼の世界に参入して、そこに自分自身の魂の声を聴くが故に、つまり、短い詩を読むように彼の散文を味わおうとして、更に彼の詩の一行を求めるのである。さて、どうも観念が独り歩きし過ぎるから、このあたりで筆を置くことにする。(文責/麥田俊一)
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