Image by: fluss
映画監督の黒澤 明の作品に『どですかでん』(1970年公開)と云うのがある。黒澤初のカラー作品で、山本周五郎の小説『季節のない街』を原作とした、貧しくも精一杯生きる市井の人々の生活を明るいタッチで活写したものだ。この作品に私は強く惹かれるのだが、本稿で映画とか文学の話をするつもりはない。我々はふと気が付いたら大人になっている。大人になろうとして大人になっているわけではない。我々はいつ大人になるのか。実は誰も知らない。映画『どですかでん』は、その謎を謎のままにすることで、様々な魅力を持ったキャラクターが登場する。雑多な登場人物は、勿論、素晴らしい原作に限りなく則していることは云わずもがなである。
ADVERTISING
「fluss」は、一般社団法人日本ファッション・ウィーク推進機構の支援プログラム「JFW NEXT BRAND AWARD 2024」に於いて審査員特別賞を受賞し、メーン会場の渋谷ヒカリエ9階の特設ブースにて新作(2024-25年秋冬)の特別展示を実施している(3月11日より16日の六日間)。展示は、どちらかと云えば、たいそう地味である。数冊の文庫本の中頁を、実物大の木の葉の形に切り取った紙片が床一面に敷かれている。幾篇かの小説で拵えた木の葉を敷き詰めた空間は、さながら落ち葉が舞い散った後の街頭のようである。デザイナーの児玉 耀が手ずから見せてくれたのは、文庫判の夏目漱石の名著『こゝろ』だった。本人が意図したのかどうかは知らぬが、エゴイズムに悩みつつ、明治の精神に殉じて自死する「先生」の心を通して生の孤独感を描いた小説を選んだあたりに、何かしら特別な思惑があるのだろうか。刳り抜かれた文庫本を眼の当たりにした私は、我が身が刻まれたような気がした。柄にもなくセンチになった私は、瑣末なことだが、そのあたりの事情を訊き漏らしてしまった。
「鼻の奥で嗅ぐような色味を意識した」と児玉が云う通り、落ち着いていながら様々な色が混じり合って生まれる配色の深みに馴染ませるように按配された展示は、地味だが滋味深くもあり、児玉の過去の創作には感じられなかった大人な雰囲気を醸し出している。訊けば、彼は今年で32歳になったと云う。
我々はいつ大人になるのか。下戸の両親に隠れて酒の特訓をしたのは中学二年の頃だった(私は中学校に上がると、裏庭に拵えて貰ったプレハブの六畳間に隔離された。代わりに私が寝起きしていた四畳半の居室は妹の部屋になった)。私は早く大人の仲間入りをしたかった。いま振り返ると愚かな話である。馬鹿奴の私の例を引くまでもないが、斯様にして、大人であることの基準ほどいい加減なものはない。例えば、両親からの独立とか、経済的な独立とか、男で云えば妻を娶るとかが世間一般の物指しだろうか。或いは、性的な経験が物指しになった古の時代もあった。法律は二十歳と云う年齢を基準としているが、勝手都合では十八歳にすり替わる。結句はファジーなのである。往時の私みたように、大人になったと云う自覚もないくせして大人だと自称して憚らない場合が殆どではないのだろうか。いつ大人になるのか。そんなことは、実は誰も知りはしないのである。
曩に述べた『どですかでん』には、それ故に、子供のような大人と、大人のような子供が、時に滑稽に、時に悲哀感に満ち満ちた様子で描かれている。正確に云えば、登場人物が、子供っぽい大人や大人びた子供ではないところがミソなのである。原作を含めて映画は、大人と云う生き物の凡てが子供の一面を残していることを見逃してはいない。更に、子供と云う生き物が、平生そうあって欲しいと云う願望から、大人が思い込んでいるほどには子供らしくなく、賢しらにも大人の一面を持っていることを見逃さない。山本周五郎も黒澤 明も、空想とか夢を題材にする作家ではない。寧ろ、徹頭徹尾リアリズムに根差した作家であることを忘れてはいけない。このあたりに、何か抜き差しならぬ真理めいたものを感じてしまう。
私は、「fluss」の過去二回のシーズンに強く惹かれていた。一つは2023-24年秋冬コレクション。当時の彼はこう語っていた。「スポーツ=格好好いと云うイメージ。格好好いと云う感覚は、僕の中では可愛いと云う言葉に還元されていることがあって、格好好いとはどんな感覚?そもそも、格好好いとか可愛いとかで白黒付けられるものではないのだけれど、でもこれが、僕がメンズをやっていて面白いと思うことの一つ」。そしてもう一つが2024年春夏コレクション。成熟と未熟、明るさと暗さ、格好好いと可愛い、男性と女性、従順と反発、成功と失敗、緊張と緩和等々、誰もが同じだと思うのだが、理想と現実の狭間で感じるズレとか矛盾を思い煩う彼は、居心地の好くない日常を憂いながらも創作の起点となったに違いない、相反するキーワードを紡ぎながら創作したコレクションだ。いずれも、児玉のウブな精神性を純粋培養した透き通った結晶みたようなコレクションだった。
そして六回目を数える今季の作品群を「look back, look forward」と題した。「エレガントとナード感」と云うキーワードを彼は挙げている。過去五回のシーズンを構成するアイデアやアプローチを振り返り、更新するのが狙いである。創作の起点となる動機について彼は次のように語っている。「三十代を、二十代の頃はもっと大人な感じになっていると思っていた。でも、実際はそんなに変わっていない。年齢を訊かれれば、もう大人だねと云われるシチュエーションにもどかしさを感じてしまう。社会的な責任や立場に追い付けていない自分のメンタリティーとギャップにモヤモヤする感じが下敷きにある」。歳を重ねたからと云って忘れたり、未熟さを恥じたりすべきではなく、寧ろ、忘れるべきではない感性であることを強く認識したと云う。故に、精神的に未熟な男性像を肯定しつつ、次のステップへの成長とか希望とか夢を見出だすことが大枠のキーワードになっている。「flussに於いては少年性と云う精神は、これまで通り大切にしていきたいし、同時に、そこから先の成熟とは、と云うことを探ってみたかった」と云う。エレガントとナードとの境界。境界とは生き物のようなもので、時には調和を打ち砕き、時には姿を消してしまうこともある。子供の夢や希望が、大人の秤に掛けられることもある。「ファッションに対する向き合い方は人それぞれだと思うが、特にコレクションメーキングの過程で云えば、僕の場合は、半年分の日記のような感覚で、その時どのように感じて生きていたかを映し出すものになっているのだと改めて認識したように思う。またこの時を振り返ることが出来るようにコレクションを重ねていきたい」と児玉は云う。(文責/麥田俊一)
ADVERTISING
PAST ARTICLES
【麥田俊一】の過去記事
RANKING TOP 10
アクセスランキング
イケアが四国エリアに初出店 香川県にポップアップストアをオープン