90年代マニラのレイヴカルチャーの気骨と魅力
ロックバンドの元マネジャーから転身した写真家がとらえたパーティーシーンの萌芽。COLLAGE: VICE / IMAGES: EDDIE BOY ESCUDERO
ロックバンドの元マネジャーから転身した写真家がとらえたパーティーシーンの萌芽。COLLAGE: VICE / IMAGES: EDDIE BOY ESCUDERO
90年代マニラのレイヴカルチャーの気骨と魅力
ロックバンドの元マネジャーから転身した写真家がとらえたパーティーシーンの萌芽。COLLAGE: VICE / IMAGES: EDDIE BOY ESCUDERO
写真家エディ・ボーイ・エスクデロのアーカイブは、フィリピンの首都で盛り上がったムーブメントを記録したタイムカプセルだ。
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By Romano Santos Photos By Eddie Boy Escudero Translated By Ai Nakayama TOKYO, JP
90年代のフィリピンでは、民主政治が復活し、規制緩和や民営化が進められた。そして過去100年で世界最大の噴火が起こった。
また、同国初となるレイヴが開催された時代でもある(あまり知られていないものの、特定の人々にとってはより重要であろう事実だ)。
ハウスやテクノ、名状しがたい尖ったファッション、そしてクィアカルチャー。それらが首都マニラのアンダーグラウンドなパーティーを盛り上げた。マラテのVerve Room、Insomnia、Kemistry、そしてパソンタモのABG’sが会場だった。
マニラでレイヴカルチャーが花開いていた頃、ロックバンドの元マネジャーから写真家に転身した当時40代のエディ・ボーイ・エスクデロ(Eddie Boy Escudero)はパーティーの真っ只中におり、カメラを持ちながら大勢のひとたちとともに踊っていた。
「90年代半ば、私はレイヴシーンと出会い、夢中になりました。最高にクールな服を着て、色とりどりに髪を染め、タトゥーを入れた変わり者たちがエレクトロニカで踊っている。まさに写真家としての夢が実現したという感じです」とエスクデロはVICEに語る。
ほどなくして彼はパーティーの撮影のために雇われ、街じゅうのイベントの写真を撮るようになる。毎晩、カメラと10本以上のフィルムを武器に、マニラのレイヴシーンが産声をあげたばかりの時期から人気が出るまでのあいだ、その気骨と魅力をとらえた。
「レイヴァーたちはフィリピン社会におけるマイノリティでした。彼らの多くは苦難を経験してきたはず。だけどレイヴのあいだは間違いなく幸福で、解放されていたんです」と彼は語る。
エスクデロによると、当時登場したばかりのテクノのビートに誰もが耽溺していたという。パーティーでは、無名の若きファッションデザイナーたちがロックスターとなった。バーが開くと、世界的なDJたちがプレイした。水のボトルを持ちながら汗まみれで踊るレイヴァーたちがバーの駐車場にまであふれていた。当時のマニラのナイトライフについて、エスクデロはこんなひと言で表した——「みんな踊っていた」
「今は携帯に夢中なひとが多すぎる」とエスクデロ。
2009年、エスクデロはレイヴ期のコンタクトシートや写真のネガの約3分の1を、台風16号(ケッツァーナ、別名:オンドイ)による水害で失った。しかし残った写真もあるし、マニラのレイヴカルチャーもいまだに続いている。
「マカティのポブラシオン地区の成功とともにレイヴシーンが復活するんじゃないかと思っています」とエスクデロ。「新しいマラテになるかもしれませんね」
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