コロナショックを経て、アパレル・ファッション業界にも大きな変化がありました。企業に属することが安定ではない…ひと昔前から言われてきたことが現実のものとなり、フリーランスの道を選ぶ人が今、増加しています。今回は、複数アパレル企業での就業を経て、2021年7月よりフリーランスデザイナーとなった宮田さんにインタビュー。フリーランスになったきっかけや1年目の現実、フリーランスに必要な覚悟などについてお話いただきました。
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― 宮田さんがデザイナーになったきっかけは何だったのでしょうか?
僕はもともと、プロサッカー選手を目指していました。大学3年生のときにその道が難しくなり、サッカーと同じくらい好きな「服」を仕事にしたいと思うようになりました。サッカー仲間であるデザイナーさんの働き方や生き方に憧れて、自分も作る仕事がしたいと、デザイナーを志望しました。
大学4年生のときに2年制の専門学校とダブルスクールした後、デザイナーとしてアパレル企業に就職しました。
― 複数のアパレル企業でデザイナーとしてご経験を積み、フリーランスを決断した理由は何だったのでしょう?
漠然と、いつか独立したいと思っていたのですが、きっかけは、30歳を過ぎて、当時の所属企業でマネジメント職に就く機会をいただいたことでした。その評価は嬉しかった一方で、理想的な働き方ができていないことも感じていました。僕が望むデザイナーとしてのキャリアを実現するには、独立したほうが良いかもしれない、と考えるようになりました。
― 宮田さんが思う、デザイナーとしての理想像はどんな姿ですか?
業界は異なりますが、無印良品のアートディレクションをされていらっしゃる原研哉さんや、建築家の安藤忠雄さんなど、年齢を重ねてもクリエイティブの第一線で活躍されている方に憧れています。僕もそうありたいと思う中、マネジメントやMDといった、企業ならではのキャリアステップにギャップを感じるようになりました。
― デザイナーとして一生活躍するために、あえて企業に属することを手放そうと。
はい。また、「企業に属していれば安心」という時代ではなくなったのも、大きな理由のひとつでした。企業やブランドの中だけでなく、自分の力でやっていけるデザイナーになりたいと、フリーランスへの転身を決意し、2021年7月からスタートしました。
― フリーランスという働き方もさまざまます。たとえば業務委託案件を複数抱え、商業デザイナーのプロとして稼ぐ形。また、ご自身のブランドを立ち上げて育てながら、稼ぐために業務委託案件も並行して請け負っていく形など。宮田さんのイメージはどのような形ですか?
どちらの要素もあります。今は商業デザイナーとしていくつかの企業から案件を請け負いつつ、並行して自分自身でもブランドを立ち上げています。ただこのブランドは、一緒に立ち上げた国内工場の製造クオリティを活かしたいという思いが強く、自身の主観やメッセージを強く反映しているわけではありません。
― 良かったらそのブランドについて簡単にご紹介いただけますか?
企業デザイナー時代に、とある「MADE in TOKYO」の工場さまと接する機会があり、製品のクオリティに感動してご一緒したいと思っていました。そのときは残念ながら叶わなかったのですが、フリーランスになってから、知人とのご縁で再会し、モノの良さを活かしてファクトリーブランドを立ち上げませんか、という話をさせていただきました。
― そこではどのようなお話をされたのですか?
ビジネスと言うよりは、純粋に僕の思いを伝えました。
僕は試行錯誤が見える服がとても好きなのですが、そういう試行錯誤って、デザイナーにスポットが当たることが多いんです。でも実際は、モノを作る工場の試行錯誤もたくさん詰まっている。その工場が生み出した製品からは、工場の高い技術力やこだわりがたくさん伝わってきました。イタリアやイギリスなど、ファッションの歴史が長い国では、評価の高いファクトリーブランドがたくさんあります。日本にももっとあっても良いと思っていて、ぜひご一緒したい!…というお話をさせていただきました。まだスタートしたばかりですが、これから良いブランドに育てていきたいです。
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