ファッションデザイナーの多くは、大学の服飾科や服飾系の大学、服飾専門学校に進学し、デザインの知識やノウハウを学んでからアパレル企業に就職しています。その後、アパレル企業で実務経験を積んだあと、自分のブランドを立ち上げて独立するというのが一般的。しかし有名なファッションデザイナーの中には独学でデザインを学んだという人も少なくありません。彼らに共通するのは知識を上回る熱量の大きさ。今回は独学で道を拓いたファッションデザイナーを紹介します。
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コシノミチコ(MICHIKO LONDON KOSHINO)
姉妹全員がトップデザイナーという稀有なコシノ三姉妹の末っ子として育ったコシノミチコ。母親に姉とは違う方法で認めてもらおうと学生時代は軟式テニスに打ち込み、日本一になるほどの腕前の持ち主でした。高校はテニスの強豪校で、指導もかなりスパルタなものでした。明るい間はひたすら球拾い、打つ練習ができるのは日が落ちてから。真っ暗な中ではボールが見えず、打てないと嘆くコシノミチコにコーチが言った一言が「“心眼”で打つんじゃ」。そんな無理難題とも言えるコーチの教えですが、なんとやってみたらできたのだとか。そんな経験から「習わずとも自分で経験することが大切」と学んだコシノミチコは、後に単身でロンドンに渡り、持ち前の行動力とパワフルさで「MICHIKO LONDON KOSHINO」を立ち上げて世界的ブランドに育てました。小さい頃から洋裁店を営んでいた母の仕事場に出入りしていたこと、姉の手伝いをしていたことで経験があったことはもちろんですが、「裏地をはがせば全て仕組はわかるもの」という本人の言葉からも伝わるように、「習う」のではなく「学び取る」姿勢が「MICHIKO LONDON KOSHINO」を導いたことがよくわかります。
山本寛斎(KANSAI YAMAMOTO)
「KANSAI YAMAMOTO」のデザイナー・プロデューサーでありロンドンで日本人で初めてファッションショーを開催するという偉業を成し遂げた山本寛斎。けばけばしさすら感じるほどの奇抜な色合いとデコラティブな装飾、インパクトのあるシルエットが特徴で、あのデヴィッド・ボウイをも魅了し、ライブ衣装を手掛けていたことでも知られています。山本寛斎は日本大学を卒業後、コシノジュンコや細野久のアトリエでお針子として働きながら、独学でスタイル画を学びました。お針子時代は月収1万2千円…それでも「何としてでもファッションデザイナーになりたい」という一心で経験を積んだそうです。お針子の仕事が終わると雑誌「装苑」を見ながら独学でスタイル画を描き起こす日々。そんな努力が実って23歳で装苑賞を受賞しました。23歳というと若くしての受賞のように思いますが、それでも8回目の応募でようやくの受賞でした。装苑賞以降、数々の賞を受賞し世界的に活躍していきました。
小泉智貴(TOMO KOIZUMI)
心躍るような鮮やかな色合いと惜しげなくフリルをあしらったドレスで知られる「TOMO KOIZUMI」。Perfume、DREAMS COME TRUEなど数々のアーティストに衣装を提供し、東京2020オリンピックの開会式では国歌斉唱をする歌手のMISIAが「TOMO KOIZUMI」のフリルドレスで登場して話題になりました。なんと1着の中に30色、計100mのオーガンジーを使用したのだとか。色鮮やかなフリルドレス=TOMO KOIZUMIというくらい印象的な世界観を確立していますが、デザイナーの小泉智貴は大学で美術教育を専攻していたのみで、服作りについてはすべて独学で行っているそうです。きっかけは14歳の頃にDior時代のジョン・ガリアーノのショーの写真を見て心打たれたこと。ファッションについて一切知らない中学生時代にこの衝撃を受けたことで人生の道筋を決めたのだそうです。何にも縛られない彼だからこそ生み出せる斬新なデザインが今大きな注目を集めています。
ココ・シャネル(CHANEL)
ファッション好きもそうでなくても知らない人はいない「CHANEL」。世界的有名デザイナーであるココ・シャネルは激動の人生を送ったことで知られています。幼少期に病気で母を亡くすと、父によって孤児院に預けられました。孤児院を出た後は、夜はキャバレーで歌手として、昼はお針子として働きました。孤児院で裁縫などは習っていたものの、もちろんデザインについての知識はなく、デザイン画も描けません。それでも貧しく苦しい境遇が彼女の強く燃えるような反骨心を育て、「CHANEL」を現在の地位に至らしめたと言われています。彼女はキャバレーの客を通して知り合った男の愛人となり、その愛人からの出資を受け、帽子専門「CHANEL MODE」を開店。世界で最も売れたと言われる香水「No.5」の大ヒット、リトルブラックドレスなどを大流行させ、一大企業にまで上り詰めました。
ラルフ・ローレン(POLO RALPH LAUREN)
アメリカントラッドの代名詞的ブランド「POLO RALPH LAUREN」。デザイナーのラルフ・ローレンは、職業学校で2年間ビジネスを勉強しました。家庭が裕福でなかったことから貧しい幼少期を過ごしたため、職業学校の卒業アルバムには「億万長者になりたい」と夢を綴っています。億万長者と言ってもなんでもよかったわけではなく、貧しい幼少期からネクタイや洋服のデザイナーを夢見ていたそうです。在学中も、自分でデザインしたネクタイをクラスメイトに安価で販売し、学校中にその名を轟かせていました。卒業後、アメリカ軍に入隊し、その後は営業の仕事に就きました。デザインについてどこかで学んだわけではありませんでしたが、その高いセンスでネクタイを製造・販売する会社「ビュー・ブルーメル」に念願のデザイナーとして採用されました。彼がデザインした斬新なネクタイは大ヒット。自身のブランド「ポロ」の名で手作りした高級ハンドメイドネクタイ部門を開設するに至りました。その翌年、ポロ・ラルフローレン社を設立。現在も世界中のファンから愛されて続けています。
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