老舗アパレルのレナウンが経営破綻した。10月30日に東京地裁から民事再生手続の廃止決定を受け、破産手続きに移行する。手続き途上にあった9月には、「シンプルライフ」「エレメントオブシンプルライフ」を小泉アパレルに、「アクアスキュータム」「ダーバン」「スタジオバイダーバン」を同グループのオッジ・インターナショナルに譲渡した。また、機能性肌着を扱う「レナウンインクス」は、ストッキングメーカーのアツギに売却している。
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破産決定は再建のスポンサー探しが難航したとの見方もあるが、業績低迷やコロナ禍による資金繰りの悪化から、本体清算は止む無しだったようだ。ところで、レナウンと言えば「アーノルド・パーマー」や「ミックマック」「インターメッツオ」と、日本のファッション史に残るブランドが思い浮かぶ。それらも求められなくなれば廃止やむ無しなのだが、メディアの中にはなぜか哀愁じみた論調がなくもない。全盛期にはテレビや新聞、雑誌にとってビッグスポンサーだったからだろうか。
他にもレナウンの恩恵を受けた人は少なくない。駆け出しの頃、銀座の山野楽器で同社のCMソングをプレゼンした小林亜星はその後、売れっ子作曲家まっしぐら。「イエイエ」のイラストを描いたのは小林の実妹で、兄妹合作という話題作りもあったと思う。アラン・ドロンやシルヴィ・ヴァルタン、高倉健はプロモーションに起用され、俳優や歌手としての存在感を不動にした。その他、代理店やその関係者はレナウンの破綻をどう思っているのだろうか。
服作りへの拘りを欠いたレナウン
皮肉にも、レナウン本体は業界の劇的な変化について行けなかった。というか、コアな洋服好きの女性たちには見向きもされなくなったのである。1980年代、若い女性が洋服を買うのは駅ビルなどのテナントがメーンとなった。トレンドの服は個性を打ち出すデザイナーズブランドが主役に躍り出た。プロモーションの場はananやMoreなどのファッション誌にとって変わった。それらはバブル全盛の1990年まで続いた。
筆者も大学生だった1980年に購入したダーバンのセットアップがレナウンではラストバイとなった。実はこのアイテムが優れもので、ジャケットには共地で半円状の肘当てが二枚袖に挟みこまれた小洒落た仕様だった。一張羅でデートの時には着たし、就職するとジャケパンスタイルでも重宝した。この頃までのレナウンは企画の秀逸さもさることながら、国内アパレルの高い縫製技術に支えられていた。少なくとも担当者の服作りへの拘りはあったと思う。
しかし、1980年以降、色や素材、デザインといった服の価値を決める上で、レナウンには「これだ」と思えるようなものがなくなった。裕福な家庭の友人はトラッドスタイルで決めていたし、ファッションマニア的な連中は「ビギ」などに惜しげもなく投資していた。周囲を見渡しても、レナウンなんか着ている男性は皆無だった。
筆者がそう感じるのだから、洋服好きの女性はなおさらではないか。挙げ句の果てが1990年の英国「アクアスキュータム」の買収だ。いくら投資家グループからの敵対的買収を救い、欧州への足掛かりを作る目的とは言え、業績低迷のブランドに200億円も投資する判断が正しかったとは思えない。むしろ、欧米デザイナーと提携しグローバル化を図ったオンワード樫山、バーバリーとのライセンスで軌道に乗った三陽商会を意識した短絡的な戦略に見える。
「バーバリーのトレンチコートがライセンスでも売れているのだから、本場のアクアスキュータムなら売れるだろう」と、レナウンの経営陣はその程度の意識ではなかったのか。しかも、百貨店系アパレルとして売場に納品した時点で売上げが計上される商慣習が裏目に出た。期初に売上げがたっても期末に返品されれば、利益率は低下する。そんな姑息な手法が激的な環境変化の中で通用するはずはない。
結局、アクアスキュータムの買収が響いて、レナウンは1991年12月期に営業赤字に転落した。まあ、バブル崩壊の影響と言えば、不振のすべてに通用するが、個人的にはレナウンの衰退はその10年以上前から始まっていたと感じる。そして、その後の約30年はリストラを明け暮れた。業界環境が激変しているのに、その潮目を経営陣は完全に読み違えたということだ。筆者は40年前にレナウンを見限ったので、今回の破綻にも少しも哀れみは感じない。
レナウンの数年後に見限ったオンワード樫山
レナウンの後に筆者が購入したのは、オンワード樫山だ。1979年、伊勢丹の新聞広告で、「キャリアウーマンにあたる日本語って、なんでしょう。」というキャッチコピーが目を引いた。同社は当時、ニューヨークで一世を風靡した「カルバン・クライン」とライセンス契約を結び、伊勢丹系列の百貨店でブランドの販売をスタートした。筆者も79年と82年にニューヨークを訪れた時は、メイシーズやブルーミングデールズでは本場の商品もチェックした。
日本ではレディスが先行し、ディナージーンズのブームに乗って「カルバン・クライン・ジーンズ」が発売され、メンズアイテムも拡充された。同ブランドはニューヨークファッションらしいコンテンポラリーな感覚で、やや細身のシャープなラインは筆者の体型に合っていた。しかも、テキスタイルが秀逸なところが気に入った理由でもある。モッサやカルゼなど特徴がある生地が用いられ、ギャバは打ち込みが強く、デニムも上質だった。
だが、「ジョルジオ・アルマーニ」に代表されるソフトスーツが登場すると、それも嗜好の対象からは外れていった。さらにDCブランドブームが相まって、スーツやジャケットのシルエットはボクシー、パンツは太めがトレンドになり、カルバン・クラインのような細身は逆に野暮ったく見えた。最後に購入したのは1986年の秋冬物だっただろうか。オンワード樫山も購入したのはカルバン・クラインのみで、わずか6年でその対象から外れていった。
一方、DCブランドはファッション誌での露出が増え、トップからボトムまで同一ブランドでコーディネートするのが常道だったが、着こなしに慣れると外し崩しのコーディネートを楽しんだ。特にこれという御用達はなかったが、「Y’s」「BA-TSU」「X-ing」などと西武系専門店が扱う無名メーカーを組み合わせて着ていた。だが、DCブランドも1988年には陰りが見え、マーケットから姿を消すものも少なくなかった。
その後はデフレ禍の影響でコストをかけた服作りが影を潜め、よほど気に入った素材やデザインにお目にかかれない限り、飛びつくことはなくなった。結局、自らの嗜好は30歳を境に成熟したと感じる。レディスでは、オンワード樫山の「組曲」、ワールドの「オゾック」がヒットしたが、それは「ナイスクラップ」のテイストにマーケット全体が引っ張られたものだ。
世間ではバブル崩壊が消費者の高級品離れを促したように言われるが、洋服好きにとってはSPA(製造小売業)やQR(クイックレスポンス)が登場すると、巷に溢れるアイテムは魅力的ではなくなったのではないか。
D2Cはどこまで廃棄商品を減らせるか
もちろん、売る側の要因もあると思う。まず、百貨店側の利幅確保の要求を受け入れ、アパレルが利益確保のために33%程度あった原価率を20%まで下げたこと。2つ目はショッピングセンター側が保証金の減額分を家賃に上乗せし、さらに開業ラッシュでオーバーストアとなったこと。そして、品揃えが限られる実店舗からECに消費の主体が移行し、そのECとて競争が激化していることだ。
先の2つの理由から、商品のクオリティが低下。さらに価競激化で価格が抑えられると、ますます商品の価値やお買い得感が失われていった。それでも、大半のお客は「安けりゃいいや」というようになった。デフレ時代の廉価政策に飼い慣らされたとでも言おうか。反面、それに安住してモノ作りを疎かにしたアパレル側にも責任はあるだろう。
3つ目の理由のECは、店舗や販売スタッフを必要としないため、アパレル側はローコスト運営ができると錯覚する。だが、競争激化で生き残るには顧客目線のサービスに投資しなければならない。いくらゾゾタウンや自社ECが連携しても、お試しや返品、店舗受け取りなどお客のニーズは止め処ない。異業種を含め、様々なアパレル経営論が渦巻く中で、肝心な服作りが語られない寂しさはある。
唯一、注目されているのはD2C(Direct to Consumer)だろうか。メーカーやブランドが自社ECサイトを通して、顧客に直接商品を販売するビジネスモデルだ。安い商品なら履いて捨てるほどあるが、それも売れなければ廃棄される運命だ。D2Cの浸透で余剰在庫が少しでも減るのはいいことだし、限りある資源やエネルギー、人的労力をカットできれば、他の分野に振り分けることもできる。
レナウンはそうした新時代のビジネスにタッチすることもなく、この世を去った。オンワード樫山はD2Cのオーダースーツや服飾小物で、辛うじて生き残ろうとしている。ただ、個人的にはそうしたアイテムも必要としなくなったので、再び御用達になることはない。ただ、自分の感性を磨くことができたのは時代ごとに登場したファッションアイテムのおかげ。それへのオマージュを込めて、Direct to Consumer by myselfでいくしかないかと考える日々だ。
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